市川左團次 (2代目)
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二代目市川左團次(いちかわ さだんじ、1880年(明治13年)10月19日 - 1940年(昭和15年)2月23日)は明治・大正・昭和に活躍した歌舞伎役者。歌舞伎の近代化に尽くした。
初代左團次の長男で、本名高橋栄次郎。はじめ市川莚升といった。先代から明治座を受け継ぎ、1906年に左團次を襲名。襲名披露の興行が大当たりで、収益を元に9か月の欧米視察に出た。海外で新しい演出法や興行法を見て、刺激を受け、歌舞伎界の革新を志した。帰国後、明治座を改良しようとするが、周囲の反対で失敗。作家の小山内薫と意気投合し、翻訳劇を中心に上演する自由劇場を始めた。
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[編集] 自由劇場
1909年11月に有楽座で第1回公演を行った。演目はイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(森鴎外訳)で、ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者が出演した。森鴎外の『青年』に自由劇場初演の様子が描かれている。
以後、自由劇場は第9回(1919年)まで行われ、前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなった。自由劇場は当時の知識人に新鮮な感動を与えたが、明治座の経営者と座主、俳優を兼ねる左團次にとっては負担も大きく、1912年左團次は明治座を売却し、松竹専属になった。
[編集] 歌舞伎
歌舞伎では岡本綺堂作の『修善寺物語』『番町皿屋敷』、真山青果の『元禄忠臣蔵』など、積極的に新作に取り組んだ。また、歌舞伎十八番の『毛抜』、『鳴神』、鶴屋南北の『謎帯一寸徳兵衛』など忘れられていた古典劇の復興も行い、家の芸として「杏花戯曲十種」を定めた。ほか、父譲りの「丸橋忠弥」、「大盃」の馬場三郎兵衛、「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門、それに「白浪五人男」の南郷力丸、「仮名手本忠臣蔵」の由良之助、「勧進帳」の富樫などの古典にも名演技を示した。立派な体格と明快な口跡で舞台を圧倒し、登場人物になりきった演技は、誰も真似できなかったと多くの人が証言している。名人六代目菊五郎は左團次の芸を認め、自分は到底及ばないとして、同じ舞台に立たなかったという。
1928年には革命後のロシア(ソ連)で『仮名手本忠臣蔵』などの公演を行った。歌舞伎界初めての海外公演であった。このとき、『戦艦ポチョムキン』の監督エイゼンシュテインと親交を持つが、エイゼンシュテインは晩年の傑作『イワン雷帝』に歌舞伎の様式美をふんだんに用いている。