仮名手本忠臣蔵
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仮名手本忠臣蔵(かな-て/でほん-ちゅうしんぐら、假名手本忠臣藏)は、元禄赤穂事件に取材した人形浄瑠璃および丸本歌舞伎の代表的演目。
作者は二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作(中心となったのは並木千柳)で、太平記巻二十一「塩冶判官讒死の事」を世界としている。人形浄瑠璃としての初演は(1748年)寛延元年8月14日から11月中旬まで、大坂道頓堀竹本座であり、同年12月1日より大阪道頓堀中の芝居で歌舞伎化。江戸での初演は寛永2年2月6日より森田座で、京都では同年3月15日より早雲長太夫座であり、以降、途切れることなく現代に至るまで上演されつづけている。
本作以前の、赤穂事件を扱った歌舞伎・人形浄瑠璃の狂言としては『東山栄華舞台』((1702年)元禄15年3月、江戸山村座)、『曙曽我夜討』(1703年、江戸中村座)、『太平記さざれ石』(1710年)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(1710年、吾妻三八作)、『碁盤太平記』(1710年、大坂竹本座、近松門左衛門作)等の諸作があり、世界も小栗判官、曽我物語、太平記など多様であったが、『碁盤太平記』あたりから世界を太平記とし、各役の振分けが固定してくる。これを受けて忠臣蔵ものの集大成として作られたのが本作である。
『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』とならぶ人形浄瑠璃の三大傑作とされ、後代や他分野の作品に大きな影響を与えている。戯曲の構成も周到かつ堅牢なうえに、丸本歌舞伎にありがちな荒唐無稽さも少ない点が近代に至るまで支持されつづけている一因であるといえよう。
出せば必ず大入り満員となる演目として有名で、劇界や劇場が不況に陥ったときの起死回生の特効薬として「芝居の独参湯(どくじんとう)」などと言われる。それだけに上演回数も圧倒的に多く、歌舞伎界では忠臣蔵に限ってどの役でも人に教えてもらうことを恥とするほどである。
いろは(仮名)47文字が赤穂浪士四十七士にかけられ、「忠臣蔵」は蔵いっぱいの(沢山の)忠臣の意味、または忠臣=内蔵助の意味とされる。浄瑠璃としては「4段目の切」に当たる九段目山科閑居の場がもっとも重く、加古川本蔵は座頭の役であることから、じつは本蔵こそ本当の忠臣であるというメッセージを「本“忠臣”蔵」に暗示したという見方もある。
目次 |
[編集] 登場人物
仮名手本忠臣蔵があまりに有名であったために、江戸時代には忠臣蔵にまつわる地口やことわざには史実よりも仮名手本忠臣蔵の役名が用いられることが多い。
- 大星由良之助(おおぼし・ゆらのすけ)
- 塩冶判官高貞(えんや・はんがん・たかさだ)
- 高武蔵守師直(こう-の・むさしのかみ・もろなお/のう)
もしくは単に、高師直(こう-の・もろなお/のう)
- 足利直義(あしかが・ただよし)
- 顔世御前(かおよ・ごぜん)
- 石(いし)
- 女形・女房役
- 大星由良之助女房。史実の大石内蔵助の妻りくなどがモデル。
- 大星力弥(おおぼし・りきや)
- 立役・色若衆
- 大星由良之助嫡男。史実の大石内蔵助の子大石主税に相当する。
- 桃井若狭助(もものい・わかさのすけ)
- 立役・白塗り(若衆役)
- 桃井播磨守舎弟・御馳走役。
- 津和野藩主亀井茲親(かめいこれちか)がモデル。
- 加古川本蔵(かこがわ・ほんぞう)
- 立役・実事
- 桃井家家老。津和野藩亀井家家老多胡主水(たごもんど)がモデル
- 戸無瀬(となせ)
- 女形・女房役(片はずし)
- 加古川本蔵女房(後妻・小浪の継母)。
- 小浪(こなみ)
- 女形・娘役
- 加古川本蔵娘。大星力弥の許婚。
- 斧九太夫(おの・くだゆう)
- 斧定九郎(おの・さだくろう)
- 立役・色悪
- 斧九太夫総領。
- 鷺坂判内(さぎざか・ばんない)
- 半道敵
- 高家用人。
- 早野勘平(はやの・かんぺい)
- 立役・白塗り(辛抱立役)
- 塩冶家家臣。史実の赤穂藩士萱野三平などがモデル。
- おかる
- 女形・娘役/女房役/傾城役
- 百姓与市兵衛娘、早野勘平女房。のち一文字屋抱傾城。史実の二文字屋かる(大石内蔵助妾)などがモデル。
- 寺岡平右衛門(てらおか・へいえもん)
- 与市兵衛(よいちべえ)・おかや夫婦
- 老役、花車方
- 平右衛門・おかるきょうだいの両親。
- 一文字屋お才(いちもんじや・おさい)
- 女形・女房役
- 一文字屋主人。本行(人形浄瑠璃)では才兵衛として立役。
- 天河屋義平(あまかわや・ぎへえ)
- 立役
- 塩冶家出入り商人。天野屋利兵衛なる人物がモデルであるとされる。
- 薬師寺治郎左衛門(やくしじ・じろうざえもん)
- 敵役
- 旗本・塩冶判官切腹の上使。
[編集] 上演形態
『仮名手本忠臣蔵』は全十一段からなり、現在でもほぼその全段が演目として残っている稀有な浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし歌舞伎においてはその内容は人形浄瑠璃と大きく異なっており、その主な相違点を以下に掲げる。
歌舞伎での上演形態 | |
---|---|
大序 | 省略なし |
二段目 | ほとんど上演されないが、場所を建長寺にあらためた歌舞伎独自の脚本もある |
三段目 | 後半部「裏門合点」を省略することが多い |
四段目 | 省略なし |
落人 | 歌舞伎では清元「落人」を挿入することがある |
五段目 | 省略なし |
六段目 | 省略なし |
七段目 | 省略なし |
八段目 | 通しの場合、「落人」を挿入して八段目を省略することが多い |
九段目 | 前半部「雪こかし」を省略することが多い |
十段目 | ほとんど上演されない |
十一段目 | まったく上演されず、現在では後人の補筆にかかる脚本によって討入りの場面を演ずる |
さらに半不精をして大幅に台本を省略することもある。
通常、二、八、九段目は上演されないが、反対に二、八、九段目だけを上演するという試みがあった(昭和49年(1974年)、国立劇場)。こうしないと、力弥・小浪の絡みがほとんどわからないはずである。座頭は博学で知られた八代目坂東三津五郎。座組は
役名 | 俳優 |
---|---|
加古川本蔵 | 八代目坂東三津五郎 |
戸無瀬 | 六代目中村歌右衛門 |
由良之助 |
十四代目守田勘弥 |
大星力弥 | 六代目澤村田之助 |
桃井若狭之助 | 四代目中村梅玉 |
小浪 | 中村魁春 |
三津五郎と勘弥は、その後すぐに死去。
- 三津五郎 翌昭和50年(1975年)1月没
- 勘弥 同年3月没
[編集] あらすじ
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
大きく分けて、以下の4つのストーリーから成り立つ。
- メインストーリー
- サブストーリー
- おかる・勘平
- 勘平は塩冶判官の武士。おかるは判官の妻・顔世御前の腰元。二人はカップル。勘平は塩冶判官のお供で外出するも、一人抜け出しておかると濃厚なデート(セックス)を楽しんでいた。勘平不在のその時に、判官が師直に刃傷に及ぶという大事件が発生。勘平は責任を感じて、切腹をしようとするも止められる。二人は、駆け落ちという道しかなかった。勘平は師直への仇討ちに加わるべく軍資金を確保しようとし、成功する。しかし入手した手段が侍の道にもとる非道なものだと誤解され、切腹する。その直後勘平の無実が判明する。討ち入り血判状に判を押し、義士の正式なメンバーとなったところで絶命する。同志の義士は勘平の財布を形見にして仇討ちに臨む。まったくフィクションのストーリーである。
- 大星力弥・小浪
- 力弥・小浪はカップル。力弥は判官側の人間で、小浪は判官の師直への刃傷を押しとどめた男の娘。小浪の父は、力弥に殺されることによって、自らの行為を許してもらおうとする。力弥・小浪は一夜限りの夫婦生活を持ち、力弥は討ち入りの準備に出発する。まったくフィクションのストーリーである。
- 師直・顔世御前
- 師直が、非道なことに他人(判官)の妻=顔世御前を見初め、横恋慕して、ちょっかいをだすも、フラれる。これが師直が判官を挑発する直接の原因となる。ここのみ、太平記の高師直が塩冶判官の妻に横恋慕した逸話を使っている。劇中の顔世御前は色気を出さなくてはいけない。
- おかる・勘平
以上、サブストーリーはすべて色(恋愛)である。そしてカネ。見物にとってとても身近で、かつ卑俗な、恋愛とカネというストーリー、そして多くの主役たちの劇的な死。それらすべてが討ち入りという一点につながっているという作劇の妙。忠臣蔵が人気狂言足りうる所以である。
[編集] 大序
- 別名 鶴ヶ岡社前の場
- 別名 兜改めの場
[編集] 解説
天王立で幕を開ける荘重な場面であり、歌舞伎では現在演目として行われている数少ない大序のひとつ。かならず幕前で、操り人形による役人替名(やくにんかえな。配役に相当)の口上がある。東西声で幕を引いた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をせず、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、演技をはじめる。最後の場面は敵役の師直、勇みたつ荒事の若狭介、二人を押しとどめる和事の判官と、「曽我対面」の幕切れと同じ構造になっている。
[編集] 物語
足利尊氏の命により、討取った新田義貞の兜を探しだし、これを供養するために足利直義が鶴岡八幡宮に遣わされる。直義の饗応役に塩冶判官と桃井若狭介が任ぜられ、その指導を高家高師直が受持つ関係上、三人も直義に従って八幡に詣で、御前に控えている。そこへ、数多く集めた兜のうちより義貞のものを見分けるために、かつて宮中に奉仕し、天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしたことのある、顔世御前(判官の奥方)が召され、見事に兜を見分ける。直義および饗応役の二人が兜を神前にささげるためにその場を離れると、顔世の美貌に一目ぼれした師直が横恋慕のあまり言寄る。そこへ折りよく来合わせた若狭介が顔世を救い、その場を去らせると、怒り心頭に発した師直は若狭介に悪口を言いかけ、短気な若狭介は刃傷に及ぼうとするが、通りがかった判官の仲裁によって事なきを得る。
[編集] 二段目
台本が二種類あり、それぞれ別物である。
[編集] 桃井館の場
[編集] 桃井館上使の場
[編集] 桃井館松切りの場
[編集] 鎌倉建長寺書院の場
幕末の7代目市川団十郎が始め、その台本が上方の初代中村宗十郎に伝わったという。掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助と本蔵とがやりとりをするという脚色。
[編集] 三段目
[編集] 進物の場・文使いの場(足利館城外の場)
若狭助は師直を斬る覚悟をするが、若狭助の家老加古川本蔵が機転を利かせて師直に賄賂を贈る。ここでは師直は顔を見せない。賄賂を受け取る師直の家臣である伴内役者の腕の見せ所。
[編集] 喧嘩場(足利館殿中松の廊下刃傷の場)
登城した若狭助は師直を斬ろうとするが、師直は卑屈に謝る。そこに判官が登城し、師直へ顔世からの求愛を断る手紙が届く。師直は判官をさんざんに罵り、たまりかねた判官はついに師直へ刃傷におよぶが、本蔵に抱き止められる。ここの作劇は高く評価されている。
[編集] 裏門合点(足利館裏門の場)
判官の供侍だった早野勘平が、顔世の腰元お軽と駆け落ちする。
[編集] 落人
- 正式名 道行旅路の花聟
この段のみ、「仮名手本忠臣蔵」ではないが、現在は一体化されて上演されている。浄瑠璃では三段目の結び。戦後の歌舞伎では四段目の後に独立した演目として設けられる。昼夜2部制では、落人で午前を終り、5段目からを夜の部にしている。「裏門合点」の代わりに上演される、楽しく色彩豊かな所作事。さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。台詞には地口(ダジャレ)も盛り込まれている。東京でよく出る。日本舞踊の定番の演目でもある。
おかる・勘平が駆け落ちを決行し、鎌倉から京都付近の山崎まで落ち延びる中途、戸塚(現在の横浜市)での出来事を描いている。戸塚は中途には無いはず、それではUターンになるではないかなどといってはならない。もともとの設定は「夜」であったが、どう考えても昼としか言いようがないという文句も出てくる。実は浄瑠璃の歌詞は、近松「冥途の飛脚」の一節の焼き直しである。
演出に三つのパターンがある。引き幕が引かれると、浅黄幕の前で花四天が現れるものと、花四天を省略して浅黄幕だけを見せるものである。浅黄幕が切られると、おかる・勘平が連れ立って歩いている。三つ目のパターンは、花四天が嘆き去った後に、花道からおかるが、次いで勘平がバタバタと走って現れる。
遠見に富士山も見える。おかるよ、ここで休もう(セックスの意味を含んでいる)。俺は主君(判官)を窮地に陥れてしまい、とても生きてはいられない、おかるよ、俺の死後の弔いを頼むと勘平。そんなこと言っていないで、私の実家(京・山崎)に来て欲しいとおかる。あなたのためなら、機も織ります、賃労働も苦ではありませんとまで言わせる。よしわかったと勘平。
すると、おかるの上司で、師直の部下である鷺坂伴内が花四天とともに登場。二人の旅路の邪魔をして、おかるをこちらによこせという(判内はおかるを彼女にするつもりである)。よし、お前を料理してやるぞと勘平。花四天を見事にやっつける。
おかる「(判内さんよ、)それでは色(恋人)にならぬぞえ」
二人が花道へ去ろうとすると、やっつけられてしまったはずの伴内が現れて
伴内「勘平待て」
勘平「なんぞ用か」
伴内「その用は… 無い!」
勘平「バカめ」
拍子木「チョン!」 伴内が尻餅をつく。
幕が反対方向(下手から上手へ)に引かれる。伴内が幕に隠されそうになるも、途中から自分で幕を引く係になってしまう。幕開きの際、通常と逆に上手から下手へ引かれるのもこのためである。無事幕を引き終えて終了。
鷺坂伴内はもともと半道敵だが、この段に関しては完全な道化となっており、拵えも異なっている。
[編集] 四段目
- 別名 扇ヶ谷塩冶館の場
- 異名 通さん場
[編集] 解説
その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席ドアを封鎖してしまい、遅刻してきても途中での入場を禁じられる。茶屋からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。また、塩冶判官役にも口伝があり、出が終わった後には誰にも顔を合わせず口をきかず、すぐに家に帰らなければならない(江戸時代ではこれが守られていた)。
[編集] 花献上・花籠の段
歌舞伎では花献上、浄瑠璃では花籠の段。
蟄居して悶々と暮らしている判官に、腰元たちが一輪ずつ花を献上して慰める。通常は省略される。切腹の前にほっと心の安らぐいい場面。
[編集] 判官切腹
判官は、切腹を申し付けられる。家老の大星由良之助が来るまではと待つが、なかなか現れず、遂に短刀を腹に突き立てたときに由良之助が駆けつけ、判官は由良之助に短刀を形見に渡す。「遅かりし由良之助」の語源である。由良之助はここで初めて登場する。
[編集] 評定
判官の館で、由良助はもう一人の家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫は立ち去る。
[編集] 城明け渡し(扇ヶ谷表門の場)
由良助は残った判官の家臣たちと仇討ちを誓い合う。仇討に意気込む息子力弥ら家臣達を説得させ退場させた後、一人残る。紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓うのである。釣鐘の音、烏の声に見送られ、由良之助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、門が引かれ無音で幕がしまる。(上方は柝を打ち続く。)懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって去って行く。
上方では、1枚の板に門が描かれ、上半分をかえすと門が小さく描かれる「アオリ」を用い、どんどん門が遠くなっていく様を表している。
[編集] 五段目
- 別名 山崎街道の場
- 上方での別名 濡れ合羽
ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。全段を通じてまったくのフィクションである。
勘平は猟師となり、おかると夫婦になる。勘平はこの時点で、師直への仇討ち謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。おかるの父与一兵衛は、勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋におかるを百両で売り飛ばす交渉に成功した。与一兵衛は遊郭から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途につく。
時は旧暦6月29日(現在の真夏、7月~8月)の深夜。天気は雨、強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。
[編集] 鉄砲渡し
勘平は、この山崎で狩人(猟師)をして収入を得ている。あまりに雨が強いので、松の木の下で雨宿り。うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく灯り(提灯)を持った男が通りがかるではないか。「その火を貸してください」しかし、男は銃を所持している勘平を山賊だと思い込み、「俺はその手(軽く話しかけておいて、油断させる手口)は食わない、あっちに行け」と追いやる。勘平は、「自分は猟師だがこういう場所では盗賊と間違われるのも無理はない」と言い、鉄砲を男に渡してしまう。「武器はあなたに渡しましたから、私は丸腰ですよ。私はその火縄銃に種火をつけて欲しいだけ。あなたが火をつけて私に渡してくださいな」と言ったところで二人が顔を見合わせると、なんと二人は顔見知り。旧赤穂藩士早野勘平と千崎弥五郎であった。
勘平は、「仇討ちの謀議にぜひ加わらせてくれ、連判状に自分も加えてくれ」と頼む。千崎は「そんなものは知らない、亡き藩主の石碑を立てる計画があるだけだ」と突っぱねる。実際には知らないことにしておいてくれとダメ押しするような感じである。勘平は、すべてを飲み込み、「とにかく金は作るので何とか話はつなげて欲しい」と頼み込む。千崎は「わかった」と言い、「元気でいろ」と互いにエールを交わしあい別れる。両人ともに舞台から消える。
[編集] 二つ玉
この部分は
- 本行
- 初代中村仲蔵以前の演出(現在でも上方歌舞伎に残る)
- 初代中村仲蔵以後の演出(江戸歌舞伎)
がそれぞれ異なった演出となる。すなわち、六段目に次いで、江戸・上方の型が大きく異なるところである。
三人の登場人物が出てくるが、この三人を一人の役者が早替わりで演ずるというのもポピュラーである。
あらすじ
おかるの父与一兵衛は、勘平に渡すための金五十両を運んでいた。そのまま勘平に金が渡されればなんとも無い話である。ところが、道中山賊(盗賊)に殺され、金を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、盗賊を猪(しし)と間違えて偶然に誤射し、これも殺してしまう。勘平は盗賊が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領してしまう。かくして、金五十両は勘平にダイレクトに渡らず盗賊を経由したがために、犯罪の金となってしまう。
後でそれが大変な悲劇、つまり六段目の勘平自殺につながる。すなわち、三人の登場人物はこの段、またはその次の段で全員死ぬことになる。鉄砲渡しの千崎も(物語には書かれないが)切腹自殺で終える。唯一死なないのは、猟師勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで、江戸期に以下のような戯れ歌ができた。
五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり
[編集] 本行
与一兵衛が現れる。上記のとおり、金を持っている。
オーイ オヤジ殿 待って下され
その声は斧 九太夫の息子・定九郎。親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。そこの親父、金貸してくんない?? 断るつもりか? お前なんて一撃だぞ… 刀で一撃。与一兵衛は即死である。すかさず定九郎は与一兵衛の懐に手を伸ばし、財布をいただく。中身を確かめる。
(金を一枚ずつ数えながら)(チャリン… チャリン… チャリン…)… 五十両… かたじけない。
定九郎は草むらに隠れる。そこへ猪が現れて舞台の中を駆け抜ける。猪は上手に消える。定九郎は猪から逃げようと後ろ向きながら立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。ぬかるみに片足を取られてよろめく。
バーン!
背中を打ち抜かれて身悶えして倒れこむ定九郎。口から血を吐いている。
鳥屋から出てきたのは、今発射したばかりの火縄銃を抱えた勘平。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら花道を通る。舞台で火縄銃の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。コリャ人だ! 猪でなくて人を殺めてしまった! 薬はないかと死者の懐を探る。薬は無いが財布があった… 俺には金が必要なのだ… このカネさえあればすべては解決する…
猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに
花道を引き込む(非常に技巧的に難しいところである)
[編集] 上方歌舞伎
定九郎が与一兵衛に声をかけることは無い。冒頭、与一兵衛が現れてしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与一兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与一兵衛を刺し殺す。定九郎は、与一兵衛を殺すまで一言も発しない。
また、定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常、この役は端役として下級俳優に割り当てられる。
[編集] 江戸歌舞伎
初代中村仲蔵は、定九郎のキャラクターそのものを変え、二枚目の役にした。黒羽二重の衣装で、非常に男前である。そもそも定九郎は、勘当される前は高級武士の息子であった。以後、定九郎は若手人気俳優の役となった。また仲蔵自身も、門閥外であったにもかかわらず大きく出世した。
市川團十郎 (9代目)は演出変更を多くおこなった。その一つが金を数える定九郎の台詞である。「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり、全編を通して、定九郎のセリフがたった一つだけになったのである。
「二つ玉」の名の通り、江戸歌舞伎では勘平は銃を二発発射する。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち“火薬が二倍使われている威力の強い玉”と解釈し、一発しか打たない。
現行の江戸歌舞伎の演出は、尾上菊五郎(5代目)が完成させた。これ以外の型はない。尾上菊五郎 (5代目)は市川團十郎 (9代目)とともに“團菊”と称される。なお、松嶋屋は片岡仁左衛門 (13代目)が東京の役者のため、弾の発射回数以外は完全に江戸歌舞伎(五代目菊五郎)の型である。
[編集] 背景説明
山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、天王山の戦い(山崎の戦い)など幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は、横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。
与一兵衛はまったくのフィクションの人物だが、友岡二丁目に「与一兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与一兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない。
(参考)『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊 (この本では観光名所として取り上げられている)
[編集] 六段目
- 別名 早野勘平住家の場
- 別名 早野勘平腹切の場
- 異名 愁嘆場
勘平は同志に50両を渡す。だが、勘平が射殺したのは舅ではないかと疑われ、同志からも駆け落ち者からの金は受け取れないと突き返される。切羽詰った勘平は切腹して果てる。やがて勘平の疑いは晴れ、勘平の名は討ち入りの連判状に加えられる。
[編集] 七段目
- 別名 祗園一力の場
- 異名 茶屋場
一方、由良之助は仇討ちを忘れてしまったかのように祇園で放蕩に明け暮れる。同志たちが説得に来るが由良之助は相手にしない。怒った同志は切ろうとするも、足軽でお軽の兄、寺坂平右衛門に止められる。同志に加わりたい平右衛門であるが、由良之助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。平右衛門は呆れて去ってしまう。敵方に寝返った九太夫が由良助の真意を探ろうとするが、由良助はこれをかわす。酔いつぶれて寝てしまう由良之助。九太夫と師直の家臣、伴内はこっそり由良之助の刀を見るが、真っ赤に錆びついている。「ヤヤ、錆たりな赤鰯」と驚く二人。その後、頬かむりをした力弥が顔世からの密書を由良之助に渡す。由良之助は密書を読むが、お軽と縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう。由良之助は秘密を知ったお軽を不憫ながらも討とうと、わざと身請けするといって退場。夫のもとに帰れると喜ぶお軽だが、そこに兄の平右衛門が現れる。由良之助の言葉を聞いて「残らず読んだそのあとで互いに見交わす顔と顔。じゃら、じゃら、じゃらと、じゃらつきだいて身請けの相談。オオ!読めた!」とすべてを察し、妹を殺して同志に入れてもらおうと、悲壮な覚悟でお軽に切りつける。驚くお軽に平右衛門は己の事情を話し、父も勘平もこの世にいないことを男泣きに告げる。お軽は自害しようとするが、そこに由良助が現れ、敵と味方を欺くための放蕩であったと本心を語る。お軽の刀に手を添えて、「こやつの息子が殺したようなものだ。父と夫の仇を討て」と床下の九太夫を刺し、平右衛門に同志に加わることを許す。感激する平右衛門に「鴨川で水雑炊をくらわせやい。」と九太夫の処置を頼む。
前半部の由良助の茶屋遊びの件では「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」酒のチョコをノコギリの上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつけるような他愛もない内容であるが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者が演じる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。
六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇が演じられた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。序曲というべき「花に遊ばば祇園あたりの色揃え」のにぎやかな唄に始まり、美しい茶屋の舞台が現れる。芸子と遊ぶ由良之助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近代随一であった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたため、地のままに演じられたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、二代目尾上松緑が双璧。お軽は、六代目尾上梅幸が一番とされている。幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな。」の台詞で再登場する由良之助は鶯色の衣装で、心根が変わっているさまを表す。幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良之助がお軽を傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇子を開いて見得を切る。
落語の「七段目」は、芝居好きの若旦那が丁稚と二階の部屋で平右衛門とお軽の件を演じ、丁稚が階段から落ちて「怪我はないか」「なあに、七段目」と下げる芝居噺。これを得意とした二代目三遊亭円歌は、出囃子も七段目幕開きの音楽であった。
[編集] 八段目
- 別名 道行旅路の嫁入
加古川戸無瀬・小波の母娘が、ある決意を胸に二人きりで山科へと東海道を上る様子を所作事で描く。義太夫には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させる演出がある。
[編集] 九段目
- 別名 山科閑居の場
大星力弥と若狭助の家老加古川本蔵の娘小浪は許婚だった。小浪とその母戸無瀬が山科の閑居に来て、結婚を願うが、力弥の母お石に判官を止めた本蔵の娘は嫁にできぬと断られる。戸無瀬は申し訳なさに小浪ともども自害しようとする。お石は三宝に小刀を乗せ「本蔵の白髪首見た上で盃さしょう。サア、いやか、応か。」と迫る。そこに「加古川本蔵の首進上申す。」と、虚無僧に変装した本蔵が現れ、由良之助父子の悪態をついてお石と争いになる。怒った力弥が現れ本蔵を槍で突く。そこに由良之助が現れる。娘の恋のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。感謝した本蔵は、死に際、由良之助に小浪を嫁にと頼み、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良之助父子は師直討ち入りの作戦を本蔵に教える。本蔵は「ハハア、したり、したり、アハハハハ」と手負いの笑いを浮かべ死んで行く。力弥と小浪は夫婦になり、一夜の契りを交わして、力弥は討ち入りのため出立する。
本蔵と由良之助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬がみものである。本蔵は十一代目片岡仁左衛門、由良之助は初代松本白鸚、二代目実川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は三代目中村梅玉、お石が初代中村魁車。芸の上でのライバルであった両優のやりとりは壮絶であった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、七代目尾上梅幸のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番であった。
この段では、実際の赤穂事件を示唆する文言がある。由良之助の妻「お石」は実際の「大石内蔵之助」を指し、本蔵の「浅き巧の塩谷殿」は実際の「浅野内巧頭」と、赤穂の名産「塩」を利かせている。
2007年1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では、十二代目市川團十郎の由良之助に、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で、午前の部の「勧進帳」とともに、團十郎、藤十郎の史上はじめての共演が実現した。
[編集] 十段目
- 別名 天川屋見世の場
討ち入りの武器を調達していた天川屋義平の店に捕手が来て、討ち入りの計画を白状しろと迫るが、義平はこれを拒み、長持ちに座って見得を切る。そこに由良助が現れる。捕手は判官の家臣たちで、義平の心を試したのだと謝る。討ち入りの合言葉は「天」に「川」と決められた。
[編集] 十一段目

- 別名 師直屋敷討ち入りの場
この段のみ、歌舞伎では、本行から完全に離れた台本となる。極端に言えば、上演ごとに異なった台本となる。そのため、ストーリーは一定せず、さまざまなバリエーションがある。但し、いかなる場合でも物語のシンになるのは、由良之助ら義士が師直を討ち取るというストーリーである。
[編集] 高家討ち入りの場
由良之助、力弥ら判官の家臣たちは表門と裏門に分かれて師直邸へ討ち入る。大立ち回りが演じられ、力弥が師直の子師泰と、勝田新左衛門が小林平八郎と斬り結ぶ。判官の家臣たちは炭小屋に隠れていた師直を引きずり出す。由良助は判官の形見の短刀を差し出し自害するよう勧めるが、師直はその短刀で突きかかって来る。由良助は短刀をもぎ取り、師直を突き刺す。由良助たちは遂に本懐を遂げ、師直の首をはねた。
[編集] 柴部屋焼香の場
- 別名 財布の焼香
[編集] 裏門引き上げの場
一同は引き揚げる。両国橋で桃井若狭之助と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは再び行進し、判官の墓所のある光明寺へ向かう。
[編集] 上演規制
[編集] 江戸期
この元禄赤穂事件は、武士社会のスキャンダルであり、やり方によっては幕政批判に通じかねないことから、上演は繰り返し弾圧されてきた。50年経ってようやく、上演されても無害と思われたのである。
[編集] 米国による占領時代
第二次世界大戦後の占領軍は、軍国主義につながるものすべてを禁止していった。歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体であったとされ、最も強硬に弾圧されていった。数年は古典歌舞伎の上演ができないものと考えられたくらいである。その禁を少しずつ解いていったのが、GHQ副司令官フォービアン・バワーズ陸軍少佐である。少佐は、交戦前に日本滞在の経験があり、実は大の歌舞伎好き、見巧者であった。彼は歌舞伎の根底に流れているのが危険な軍国主義ではなく人間のドラマであることを知っていたので、次々に禁止演目を縮小していった。最後に残った大演目が仮名手本忠臣蔵であった。少佐は、松竹大谷竹次郎に対して、以下の条件を満たせば忠臣蔵の上演が許可されると告げた。それは
- 現在の歌舞伎界で最高の役者たちを揃えること
- その中に関西歌舞伎の高砂屋(三代目中村梅玉)を加えること
高砂屋こそ、新駒屋(中村魁車。戦災で死亡)とともに関西歌舞伎を支えてきた名女形であり、関東の好劇家のなかでその実力の高さが密かに話題になっていた名優だったのである。その他の全ての役のキャスティングも、少佐自身が事実上の指令として出したものである。以下の通りである。
役名 | 俳優 |
---|---|
塩冶判官 | 三代目中村梅玉 |
高師直 早野勘平 |
六代目尾上菊五郎 |
由良之助 不破数右衛門 |
七代目松本幸四郎 |
顔世御前 一文字屋お才 |
七代目澤村宗十郎 |
桃井若狭之助 寺岡平右衛門 |
初代中村吉右衛門 |
足利直義 おかる(落人) |
十六代目市村羽左衛門 十七代目中村勘三郎 一日替わりのダブルキャスト |
おかる(七段目、八段目) | 三代目中村時蔵 |
石堂右馬之丞 千崎弥五郎 |
七代目坂東三津五郎 |
定九郎 薬師寺治郎左衛門 |
十一代目市川團十郎 |
大星力弥 | 七代目尾上梅幸 |
鷺坂判内 | 二代目尾上松緑 |
まさに考えられる最高の座組、バワーズはまさにプロ以上の眼を当時から持っていたことになる。
上演は1947年11月であるが、戦災で東京歌舞伎座などほとんどの劇場が消失しており、東劇(東京劇場)が用いられた。初日から超満員で切符を求める観客が殺到する大ヒットとなった。天皇は来なかったが皇后(香淳皇后)が観劇している。こののち、役者の多くは次のように死去している。
この座組は二度と揃わなかった。
[編集] 外務省
サンフランシスコ講和条約を結び、占領状態も解け、日本が復活しようとしている1960年、かぶきは、ニューヨーク、ボストンなどアメリカ合衆国東海岸で公演を行った。(アヅマ・カブキを考慮しなければ、)伝統歌舞伎が西欧・米国で演じられるのはこれが歴史上初めてである。勧進帳などとともに、忠臣蔵も演目の中に含まれた。大序・三段目・四段目をかけることになった。しかし、ここまで決まったときに、日本外務省が横槍を入れてきた。(判官が)「ハラキリ」するのはいかがなものか…と。かぶきにとって救いの神になったのは、軍を辞めてニューヨークに移り住んでいたフォービアン・バワーズである。
「いけません、いけません!何をバカなことをやっているのです!判官が切腹しないなんて、それはカブキではありません!」
かくて、全ての回で通常の台本通りに演じられ、伝統を知らない米国人観衆を心から感動させた。歌舞伎はまたも守られたのである。
[編集] 英訳
- Dickins, Frederick Victor (1838-1915) , Chiushingura - or the Loyal League - ,英字新聞The FarEastに連載,Yokohama , 1874-1875
- Dickins, Chiushingura - or the Loyal League - , London , 1875(上記の単行本)
- Masefield,John (1878-1967), The Faithful , London ,1915
- Masefieldは、刃傷の原因を色恋沙汰ではなく、キラが領土拡張を狙いアサノの土地を狙ったからだ、と改変している。
- 邦題『忠義』 小山内薫翻訳
- “大統領”市川左團次 (2代目)が歌舞伎化した。新国劇も上演している。
[編集] 外伝
- 東海道四谷怪談 大南北の作
- 四谷左門も伊右衛門も塩治藩武士で、お家が取り潰された後食い詰めて、物乞い・殺人・強姦など非道を尽くす
- 太平記忠臣講釈 近松半二ら6人合作
- 義臣伝読切講釈
- 日本花赤穂鹽竈
- 菊宴月白浪 大南北の作 市川猿之助 (3代目)が百数十年ぶりに復活させた
- 女定九郎(忠臣蔵後日建前)
- 三人の主役たちの妻たちの後日談。定九郎の妻が与市兵衛妻・勘平妻に仇討ちする。もちろん、その手段は小ゆすり・たかり・ぶったくりである
- 真山青果が“大統領”市川左團次 (2代目)に書き下ろした新歌舞伎の最高傑作
- 盟三五大切 大南北の作
- 猟奇変態殺人鬼源五兵衛は実は不破数右衛門その人で、最後に討ち入りの迎えが来るや即座に忠義に生きる義士にもどる。
- 清水一角
- 松浦の太鼓
- 土屋主税 中村鴈治郎 (初代)のお家芸
[編集] 落語と仮名手本忠臣蔵の関係
落語では、仮名手本忠臣蔵がくすぐり、サゲとして使われることもある。仮名手本忠臣蔵そのものを題材とする場合もある。以下に、段と演題を挙げる。
- 二段目:芝居風呂
- 三段目:質屋芝居
- 四段目:蔵丁稚、淀五郎
- 判官切腹のシーンがサゲとなる。
- 五段目:中村仲蔵
- 定九郎役をもらった役者・中村仲蔵の話。通常サゲは無い。
- 六段目:鹿政談
- くすぐりとして使われる。
- 七段目:役者息子
- 階段の七段目から落ちた、というサゲになる。そのまま「七段目」という演題でも演じられる。
- 九段目
- 噺そのものはあるが、サゲが分かりにくいためあまり演じられていない。
- 十段目:天野屋利兵衛(天川屋義平)
- いわゆる「バレ噺」。女と間違えられた天野屋利兵衛(天川屋義平)が、「天野屋利兵衛(天川屋義平)は男でござる」と言うサゲ。
八段目と十一段目を題材とした落語は存在しない。
[編集] 花柳界と仮名手本忠臣蔵の関係
花柳界では、人気のあるお芝居を伏線とする唄が作られることがある。仮名手本忠臣蔵では笹や節が代表である。 仮名手本忠臣蔵を元とした浪曲「義士伝」が直接の参照元とされ、俗曲に分類される曲でありながら、浪曲的な歌い方をする個所がある。 歌詞については流派により異なる点があるが、内容としてはほぼ同じため、以下に歌詞の一例として挙げる。
- 笹や 笹笹 笹や笹 笹はいらぬかすす竹を 大高源吾は橋の上 あした待たるる宝船
- 赤の合羽に饅頭笠 降りくる雪もいとわずに 赤垣源蔵は千鳥足 酒にまぎらすいとま乞い
- 胸に血を吐く 南部坂 忠義にあつき大石も 心を鬼にいとま乞い 寺坂来たれと雪の中
[編集] 参考文献
- 戸板康二『忠臣蔵』東京創元社 1957年 現在に至るまで忠臣蔵研究の決定版
- 渡辺保『忠臣蔵-もう一つの歴史感覚』(『中公文庫』)、中央公論社、1985年12月。ISBN 4-12-201285-6