平清経
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平清経(たいら の きよつね、長寛元年(1163年) - 寿永2年3月10日(1183年4月4日))は、平重盛の三男。母は藤原家成の女・経子。妻は藤原成親の女。正四位下・左近衛権中将。横笛の名手として聞こえた。
治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の際には園城寺攻撃に参加する。平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことをきっかけとして、豊前国柳浦にて入水自殺した。能の代表的な演目である「清経」は、後世このエピソードを元に世阿弥が書き上げたものである。また、同じくこのエピソードをもとに、1969年には秦恒平が『清経入水』を発表している。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、これにちなんで駅館川河口付近に小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている(「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と通称されたことに由来する)。また、小松塚のたもとにある橋(駅館川河口に最も近い)も小松橋と名付けられている。