平経盛
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平経盛(たいらのつねもり、天治2年(1125年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日))は、平安時代の武将。平忠盛の三男。母は陸奥守源信雅の娘。修理大夫。清盛の弟。経正、経俊、敦盛の父。文治元年、壇ノ浦の戦いに敗れ、弟の教盛とともに入水して果てた。なお、経盛は3歳年下の弟・教盛よりも常に出世が遅れたが、それは両者の生母の身分差(教盛の生母は摂関家の子弟である藤原家隆の娘)によるものである。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1150年(久安6)6月25日、従五位下に叙位。
- 1156年(保元元)9月17日、安芸守に任官。 閏9月22日、常陸介に遷任。
- 1157年(保元2)10月22日、従五位上に昇叙。
- 1158年(保元3)8月10日、常陸介辞任。
- 1159年(平治元)12月27日、伊賀守に任官。
- 1160年(永暦元)4月3日、正五位下に昇叙。伊賀守如元。 4月7日、皇太后宮権大進兼任。 8月14日、従四位下に昇叙。伊賀守と皇太后宮権大進如元。
- 1161年(応保元)9月15日、左馬権頭に転任。 10月8日、従四位上に昇叙。左馬権頭如元。 10月19日、若狭守兼任。
- 1162年(応保2)7月17日、皇太后宮亮兼任。
- 1163年(長寛元)12月20日、正四位下に昇叙。左馬権頭・若狭守・皇太后宮亮如元。
- 1165年(永万元)12月21日、左馬権頭辞任。
- 1166年(永万2)1月12日、若狭守重任。
- 1168年(仁安3)8月12日、内蔵頭兼任。
- 1170年(嘉応2)1月18日、若狭守辞任。 12月30日、従三位に昇叙。皇太后宮亮如元。
- 1171年(嘉応3)1月18日、讃岐権守兼任。
- 1175年(承安5) 讃岐権守止む。
- 1176年(安元2)2月5日、皇太后宮亮辞任。
- 1177年(安元3)1月24日、正三位に昇叙。
- 1178年(治承2)1月28日、皇太后宮権大夫に任官。
- 1179年(治承3)11月17日、修理大夫兼任。
- 1181年(養和元) 兄・清盛没。 12月4日、参議に補任。修理大夫・皇太后宮権大夫如元。
- 1182年(養和2)3月8日、備中権守兼任。
- 1183年(寿永2)8月6日、解官