建文帝
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姓名 | 朱允炆 |
年号 | 建文 |
廟号 | 恵宗 |
字 | - |
諡号 | 嗣天章道誠懿淵功觀文揚武克仁篤孝譲皇帝 |
生没年 | 1383年-1402年? |
在位 | 1398年-1402年 |
建文帝(けんぶんてい 1383年(洪武16年) - 1402年(建文4年)? 在位1398年 - 1402年)は、中国明朝の二代目皇帝。諱は允炆(いんぶん)。靖難の変により永楽帝に簒奪されたため廟号は明代にはつけられなかったが、南明の福王より譲皇帝の諡と恵宗の廟号を、清朝の乾隆帝より恭閔恵皇帝の諡を加えられた。日本ではその在位中の年号から取って、建文帝と呼ぶことがほとんどである。
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[編集] 生涯
建文帝は洪武帝の第一子で皇太子であった朱標(懿文太子、興宗)の第二子として生まれた。朱標の死後、皇太孫に立てられた。
洪武帝の死後、皇帝に即位した建文帝とその側近の方孝孺達は地位を確固たるものとするため皇族の力を弱めることを画策し、周王、斉王、代王をそれぞれ庶民に落とし、湘王を自殺させ、岷王を漳州に流した。
建文帝にとって最も恐るべき敵は後の永楽帝である燕王朱棣であり、上記の諸王を廃したのは燕王を追い落とす準備期間であった。これに危機感を持った朱棣は「君側の奸である方孝孺達を殺し、朝廷を靖める」と称し、軍を起こした(靖難の変)。
兵力では燕王軍の数万に対し、南京の建文帝軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし燕王軍は北のモンゴルと度々戦ってきた歴戦の朱棣自身が指揮を取ったのに対し南京軍は将軍に人材を欠いた。これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、創業以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。とはいえ将軍の質だけでは兵力差を覆すには至らず内乱は長引いた。
建文帝はその元号からもわかるように文を重んじ、柔弱な性質を持っていた。これから出陣する将軍に対して「私に叔父殺しの汚名を着させないでくれ」などと言ったり、戦いの最中、朱棣が死んだという誤報を信じ、将軍を首都に召還したりした。このようなことをしていて勝利を得ることができるはずがない。もし建文帝が果断な決断をしていれば勝利は自ずから転がり込んできていただろう。
1402年、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方が判らなくなった。一説には僧に変装して逃げ出したと言われる。
永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消した。その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明代には建文帝の名誉は復活しなかった。その後、清代・乾隆帝の時にようやく明朝第二代皇帝、恭閔恵皇帝の諡として認められた。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 馬皇后
[編集] 子
- 太子朱文奎
- 朱文圭
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