後藤基清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後藤 基清(ごとう もときよ、生年不詳 - 承久3年7月2日(1221年7月22日))は、鎌倉時代の武将。実父は佐藤仲清で、後藤実基の養子となった。
源頼朝に仕え、1185年(文治元年)の屋島の戦いなどに参加したが、1185年頼朝の許しを得ずに官位を得てとがめられる。京都守護一条能保の侍でもあり、在京御家人として活躍するが、1199年(正治元年)源通親への襲撃を企て讃岐国守護を解任される。その後、後鳥羽上皇との関係を深め、西面の武士・検非違使となる。建保年間(1213年-1219年)から播磨国守護となる。1221年(承久3年)の承久の乱では後鳥羽上皇方につき、敗北。その後幕府方についた子の基綱に処刑された。
[編集] 関連項目
- 後藤基次(基清の子の後藤基重の末裔)