桐野利秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桐野 利秋(きりの としあき、天保9年(1838年)12月 - (1877年)明治10年9月24日)は、江戸時代後期(幕末)の薩摩藩士、明治初期の軍人である。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 出自・城下士
天保9年(1838年)12月、鹿児島郡吉野村字実方で城下士(桐野家は御小姓与であったが、先祖が罪を得たために禄を5石に減らされ、姓を中村に変えて吉野に逼塞していた)の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。幼名は信作(西南戦争時の行李に記名。幼名と思われる)。名は利秋、通称は半次郎という。初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称した。5人兄姉弟妹(きょうだい)で、上から与左衛門邦秋、姉、半次郎利秋、山内半左衛門重邦(山内家の養子となる。西南戦争に従軍)、妹の順。別府晋介は母方の従弟である。その家系は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)に起こると称す。
10歳頃、広敷座の下僚であった父与右衛門が罪により徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄与左衛門を助けていたが、18歳のときに兄が病没してからは小作や開墾畑を耕して一人で家計を支えた。二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。この郷中には生麦事件で英人を斬った奈良原幸五郎や寺田屋事件で死んだ弟子丸龍助など精忠派の士が多く、彼らの影響を強く受けた。
[編集] 幕末・人斬り半次郎
文久2年(1862年)、島津久光公に随って上京し、尹宮(朝彦親王)附きの守衛となり、列藩の志士たちと交際し、小松帯刀らから用いられるようになった。元治元年(1864年)、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴き、初めて軍事偵察の能があるのを知られた。かねて列藩志士と交際して長州屋敷にも出入りしていたので、禁門の変に続く第1次長州征伐の際には、西郷隆盛に志願して長州に赴き、脱藩したと称して入り込みを計ったが失敗した。
薩長同盟以前の他藩志士との交際については、元治元年(1864年)4月16日、土佐の山本頼蔵の『洛陽日記』に「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」とあるほか、慶応元年3月3日、土佐脱藩の土方久元『回天実記』に「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見える。
薩長同盟後は両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ねていたことが、種々の日記、書簡などで確認される。慶応3年(1867年)5月10日には伊集院金次郎とともに馬関から長州藩士山県狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで護衛した(山県有朋『葉桜日記』)。同年秋、ほぼ毎日のように数人で京都見回りをしていたが、9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺した。中村には「人斬り半次郎」という異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件だけである。また、同年10月に坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走したという。
[編集] 戊辰戦争・大総督府軍監
戊辰戦争(明治元年、1868年)では、城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功を以て小隊の小頭見習いになった。東征大総督府の下参謀西郷隆盛が東海道先鋒隊を率いて先発東上したとき、抜擢されて城下一番小隊隊長となって静岡・小田原を占領した。2月27日、西郷は中村を小田原まで来た輪王寺門主入道公現親王のもとに派遣し、西上の事由を尋問し、随従してきた諸藩兵を撤退させた。のち静岡での西郷と山岡鉄舟の会談を護衛した。次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談を護衛し、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。この戦いののち、河野四郎左衛門を伴っての湯屋からの帰りに神田三河町で一刀流の剣客鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失った。
傷を負った時期について、栗原智久氏の『史伝 桐野利秋』は、上野戦争当日、薩摩藩兵の負傷治療にあたった関寛斎の日記に「刀傷右掌右指で中村半十(次)郎」とあることから、当日のことではないかとしている。
この傷を養ったのちの8月21日、西郷の推挙で大総督府直属の軍監に任じられ、鹿児島・宇都宮の2藩兵を率いて藤原口(日光口)に派遣された。中村は9月1日に大内に到着すると、会津若松を攻撃するために藤原口の軍議を主催し、栃原進撃を部署した。翌日から4日にかけての関山の戦い、9月5日から8日までの若松南部の戦いを経て藤原口部隊は若松城近郊へ進出した。次いで9月10日には伊地知正治・板垣退助・山県有朋らと軍議し、攻城の分担区域を定めた。この際、指揮下の藤原口部隊は会津若松城の南西部が割り当てられたが、実際に中村指揮の藤原口部隊が攻城戦に参戦したのは9月14日からであった。9月22日、会津藩が降伏し、開城の式がおこなわれたとき、中村は官軍を代表して城の受け取り役となった。このときの進退・処置の見事さで世に名が知られた。これら戊辰戦争の功で、のちに章典禄200石を賜った。
[編集] 明治新政府・陸軍少将
明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられとき、第一大隊の隊長となった。明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入され、陸軍大佐に任じられた。7月、陸軍少将に昇進した。明治5年(1872年) 4月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。このときの経験から、11月に徴兵令が発布されたときは批判的であった(桐野は新制の軍隊を「農民兵」と侮蔑したという話が伝わっており、こうした見方が西南戦争の際に油断を生んだのではと見る者もいる)。同年7月、桐野は北海道に視察に行き(樺山愛輔『父、樺山資紀』)、帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所の所長に転任した。10月、征韓論が破裂して西郷隆盛が下野するや、辞表を提出して帰郷した。
[編集] 西南戦争
明治6年11月、鹿児島へ帰った桐野は、鹿児島郡吉田郷本城村字宇都谷にある久部山の原野を開墾して日を過ごした。明治7年(1874年)、辞職軍人有志の発議で鹿児島の青少年の教養のために私学校がつくられたとき、篠原国幹が銃隊学校、村田新八が砲隊学校・賞典学校(幼年学校)を監督し、桐野は翌年つくられた吉野開墾社を指導して、率先して開墾事業に励んだ。7年の台湾出兵ののち石川県士族石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。
明治10年(1877年)、2月6日、火薬庫襲撃事件・中原尚雄の西郷刺殺計画を聞いて開かれた私学校本校での大評議は、桐野主導で議論され、大軍を率いて北上することに決した。出兵のために池上四郎が募兵、篠原国幹が部隊編制、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、桐野は各種軍備品の収集調達を担当した。2月13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、五番大隊指揮長に池上四郎、六番・七番大隊連合指揮長に別府晋介が選任され、桐野は四番大隊指揮長となり、総司令を兼ねた。
2月20日、先発した別府晋介の部隊が川尻に着し、熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争(西南の役)の実戦が開始された。22日、相次いで到着した薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲攻撃した。桐野は池上とともに正面軍を指揮したが、熊本城は堅城ですぐには陥ちなかった。本営軍議で桐野・篠原らが主張する全軍攻城論と池上四郎・野村忍介・西郷小兵衛らが主張する種々の分進論が折り合わず、軍議が長引いている間に、政府軍の第一旅団(野津鎮雄)・第二旅団(三好重臣)の南下が始まった。これに対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山に海岸線を抑えさせ、篠原(六箇小隊)が田原に、村田・別府(五箇小隊)が木留に進出し、桐野は自ら三箇小隊を率いて山鹿に向かい、政府軍を挟撃して高瀬を占領しようとしたが、互いに勝敗あって戦線が膠着した。
3月20日の田原の戦い、4月8日の安政橋口の戦いで敗れ、4月14日、薩軍(党薩各派を含む)が熊本城の囲みを解いて木山に退却したとき、桐野は殿りとなり二本木で退却軍を指揮した。4月21日、薩軍は矢部浜町に退却し、西郷・桐野・村田・池上らが軍議して薩隅日の三州盤踞をなし、機を見て攻勢に転ずると方針を定めた。4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は江代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、新たに編制した中隊を各地に派遣した。以後しばらく桐野は人吉本営で指揮していたが、戦況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴き、5月28日、宮崎支庁を軍務所と改称して根拠地とした。人吉陥落が間近に迫ったので、池上に護衛された西郷をここに迎え、本営とした。ここでは桐野の命で軍票(西郷札)がつくられ、逼迫した軍の財政の立て直しが試みられた。
6月、桐野は宮崎本営で諸軍を指揮した。7月24日に村田指揮部隊が都城で大敗し、7月25日に始まった宮崎の戦いが31日に敗れると、桐野は西郷を追って高鍋に赴いた。8月1日、桐野は佐土原で敗れ、政府軍に宮崎を占領された。8月2日には高鍋で敗れた。8月3日、桐野は平岩、村田は富高新町、池上は延岡にあって諸軍を指揮したが、美々津の戦で敗れた。8月13日、14日、桐野・村田・池上らは長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、延岡の戦いで別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗北し、延岡を総退却して和田峠に依った。
8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍と西南の役最後の大戦を試みた。早朝、西郷隆盛自ら桐野・村田・池上・別府らを随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。8月17日夜12時頃、西郷隆盛に従い、可愛嶽(えのたけ)を突囲した。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野利秋・村田新八、後軍は中島健彦・貴島清が率い(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が総指揮をとったとする)、池上と別府が約60名を率いて西郷を警護した。この後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、三田井を経て鹿児島へ帰った。
9月1日、突囲した薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させた。9月19日、桐野に内緒で山野田一輔・河野主一郎が西郷救命の軍使となって参軍川村純義のもとに出向いたとき、桐野は激怒したと伝えられる。 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷隆盛が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府晋介の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦し、相次いで銃弾に斃れ、刺し違え、或は自刃した。このとき桐野は塁に籠もって勇戦し、額を打ち抜かれて戦死した。享年40。
[編集] 人物
桐野は明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈されて名誉回復した。
『西南記伝』四番大隊将士伝に桐野利秋を評して「利秋、天資英邁(えいまい)、気宇宏闊(こうかつ)、其人を待つや、憶を開き、胆を露はし、毫も畛域(しんいき)を設けず、然れども志気一発、眉を揚げ気を吐くに当たりては、その概、猛将勇卒と雖ども仰ぎ視ること能はざるものありしと云ふ」という。西郷隆盛は「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。
桐野は、慶応3年(1867年)の在京中のことを記した『桐野利秋日記』(旧称「京在日記}など日記3篇を含む)を残している。今これを視ると、達筆とは言えないが、雄勁な筆運びで、勇武な気性がよくあらわれている。桐野は禄5石という貧窮の家で育ったが故に農民同様の生活を送り、系統的な学問をせず、剣術も小示現流の伊集院鴨居門下(『西南記伝』。ただし誤って古示現流としている)あるいは薬丸自顕流の薬丸兼義門下(鹿児島の伝承による。桐野の妹の子息の友人であった『少年読本第十一編 桐野利秋』の著者は、初め伊集院鴨居から小示現流を学び、のちに薬丸自顕流の技を習ったとする)というが、多くは独力で修得し、達人の域に至った。無学文盲というのは誤りである。日記中の記述(上手とは言えないが、和歌さえつくっている)を見る限り、読み書きに充分な教養があったことは確かである(読み書きは主に外祖父別府四郎兵衛から教わった)。ただ当時の武士の教養であった漢文を正確に読み書きできず、話中の漢語が理解できなかったから、彼らから嫉みも込めて無学と呼ばれたと思われる。西郷の評語が「学問あらしめば」ではなく、「学問の造詣あらしめば」となっていることを吟味すべきであろう(この場合の学問は四書五経を意味している)。
市来四郎(島津斉彬のもとで反射炉の構築、薩摩切り子の開発を手がける。西南戦争では島津久光と行動をともにし、後、島津家の歴史編集に従事)の『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。
後年、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。
なお、浄光明寺跡で裸にされての検屍を樹上から見物していた竹内少年の目撃談(竹内才次郎『西南役前後の思出の記』)によると、桐野は西郷と同じくフィラリアを病んでいた。
洒落者(しゃれもの)として有名であった。陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。
[編集] 参考文献
- 川崎紫山『西南戦史』、博文堂、明治23年(復刻本は大和学芸社、1977年)
- 春山育次郎『少年読本第十一編 桐野利秋』、博文館、明治32年7月10日
- 日本黒龍会『西南記伝』、日本黒龍会、明治44年
- 加治木常樹『薩南血涙史』大正1年(復刻本は青潮社、昭和63年)
- 香春建一『大西郷突囲戦史』、改造社、1937年
- 竹内才次郎『西南役前後の思出の記』、自家出版非売品、昭和12年
- 大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
- 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、昭和52年
- 栗原智久編『桐野利秋日記』、PHP研究所、2004年
- 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会
- 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会
- 東京大学史料編纂所「維新史料綱要」(全10巻)、1936ー1943年(東京大学史料編纂所データベース)
- 宮地佐一郎編『中岡慎太郎全集』、勁草書房、1991年6月20日
- 土方久元『幕末維新史料7 回天実記』、新人物往来社、昭和44年4月15日
- 市来四郎『丁丑擾乱記』『丁丑擾乱実記』(『鹿児島県資料 西南戦争 第1巻』に収録 原本は国会図書館憲政資料室)
- 栗原智久著『史伝 桐野利秋』、学習研究社、平成14年9月24日