応天門の変
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応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。
大納言伴善男は左大臣源信と不仲であった。源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。
864年に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上げられなかった。
866年閏3月10日、応天門が放火炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたものだとされた。
藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。
参議藤原基経がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。
8月3日、備中権史生の大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸であると訴え出る。鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。(鷹取が子が善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけたのを恨んでのことともされる。)鷹取は左検非違使に引き渡される。
天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じた。伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されるが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、彼らは犯行を認めなかった。
9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。
* 藤原氏による他氏族排除の一環とする説も存在する。