愛洲久忠
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愛洲 久忠(あいす ひさただ、享徳元年(1452年) - 天文7年(1538年))は、室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。伊勢国五ケ所浦(現・三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦)出身。号は移香斎(いこうさい)。通称は太郎。剣聖・上泉信綱は弟子である。
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[編集] 出自
愛洲移香斎久忠は、南勢町五ケ所浦で愛洲氏一族として生まれた。秋田県の平澤家に伝わる文書、『平澤家伝記』によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称した。移香斎は法名である。幼少期より天才的な剣才に恵まれ、その名は伊勢に知れ渡っていた。そこで、武者修行をもって生業とし、気の向くままに諸国を巡り、上洛する。
[編集] 開眼
京都で住吉流の剣士と試合をして敗北した移香斎は、これを契機にさらに武者修行を重ねる。1488年、移香斎36才の時に九州日向国の鵜戸神宮に至り、日向灘に面した太平洋の荒波が形成した、海食洞の岩屋の神殿に篭る。頭上で香を焚き神に深い祈りを捧げ、剣法の奥義を悟るべく願をかけた。21日目の早朝、人影もないのに灯明が揺れ動いた。その時、蜘蛛が顔の前に降りてきたので、これを取り除こうとするが、なかなか思うようにはいかない。手に握って押しつけても硬くて潰れないし、試行錯誤していると、手から抜け出て高い所へ行ってしまう。また、前に居るかと思えば後に行ってしまう。その瞬間、探し求めていた剣の奥義を悟ったと感じる。すると蜘蛛はたちまち老翁となって現れ、「汝の剣法を体得したいという熱意がよく理解出来た故この術を授ける・・・陰の流と名付ける」と言った。それが陰流の誕生である。老翁は、「南方に住吉(前述の住吉流の剣士とは別人)という天下の英雄が居るから、彼にこれを伝えよ」とも言った。移香斎はすぐに住吉宅に行き、その意を伝えると住吉は勝負を申し出た。移香斎はこの勝負に勝ち、天下に名声を高めた。そして、ここに領地を貰い、住むことになったという。こうして、移香斎の陰流は九州全土に広まった。
[編集] 陰流
移香斎の活躍した戦国時代は、戦法が騎馬戦から歩兵戦への変換期であった。まだ刀を持った侍の戦闘力が戦争の主流であった時代に、剣士の心の動すらも内包して、技と表裏一体のものとして捕らえ、体系化したことは画期的である。その後受け継がれた剣法の中で、人を生かす剣(活人剣)として大成した事実を鑑みても、彼の創始した「陰流」の歴史的意義は非常に大きい。移香斎は諸国流浪後、上野国の上泉伊勢守信綱に伝授する。彼のその後は、杳として定かではない。
- 移香斎は、この頃武士の守護神とされていた魔利支天を厚く信仰していた。