戚継光
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戚 継光(せき けいこう、嘉靖7年(1528年) - 万暦15年(1587年))は、中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。
登州衛(山東省蓬莱県)の出身。中国沿岸を中心に密貿易を行っていた倭寇(後期倭寇と呼ばれる)の討伐に従事する。浙江省金華・義烏で兵を集め、「戚家軍」と呼ばれる自身の精兵、水軍を組織する。胡宗憲の指揮下で兪大猷、劉顕らとともに倭寇を討伐する。
1567年に海禁例が解かれて倭寇の活動が沈静化するとその後は北方防備に従事し、アルタン・ハンの侵入に対応する。
こうした武歴から内閣大学士で当時大きな権力を持っていた張居正に重用されるようになったが、張の死後、戚の功績をねたむものから弾劾され、免職された。その処置は3年後に撤回されるものの、まもなく失意のうちに世を去った。
『紀效新書』『錬兵実紀』などの兵学書も残している。これらの兵法が清末に注目されるようになり、まず太平天国の乱の鎮圧に当たった曽国藩がこれをもとに自らの軍を整備する。さらにしばらくして中国に対する日本の侵略がなされるようになると、倭寇を討伐した経歴を持つ戚継光の業績を称えられる風潮が起るようになった。
また、日本でも、兵学にも一家言あった江戸時代の荻生徂徠が『紀效新書』を高く評価した。
俗説では歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、『女房を恐れない男こそ真の勇者である』と言ったなど笑い話がいくつも伝えられている。
[編集] 史料
『明史』戚継光伝