海禁
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海禁とは、中国の明朝(1368年 - 1644年)、清朝などが行った制限貿易政策である。明では1372年に発令。
1386年、元末の反乱集団のなかから、朱元璋(洪武帝)は元(1271年-1368年、モンゴル帝国)を北へ逐って明を建国する。当初には元末反乱集団残党の活動鎮圧などを目的に海外貿易の制限が行われたが、元代までの民間貿易興隆は引き継がれ、永楽帝時代には鄭和の南海遠征など対外発展が見られたが、朱子学の採用、農本抑商主義、自給自足体制、中華思想の復興を指向し、治安維持や倭寇対策として朝貢形式の私貿易や中国人の海外渡航禁止が原則となり、在外中国人の帰国に制限がかけられた。これによって出来た体制を海禁朝貢体制という。
南方では、主に琉球や安南、日本やマラッカとの交易が行われた。倭寇鎮圧に応じた日本の室町幕府との交易は遣唐使停止以来で、3代将軍足利義満時代から朝貢・制限貿易形式の日明貿易が行われていた。日明貿易は義満の死後に停止するが、その後再開される。
明により北へ逐われたモンゴルは通商を求めて侵入を繰り返たため、北方での軍事費増大は中国国内での銀不足を招き、銀需要が発生。1523年に日本の朝貢使節同士が衝突して寧波の乱が起こり海禁が強化されると、生活を奪われた人々は武装密貿易や海賊活動に転じ、再び倭寇(後期倭寇)が活発化する。明朝は「北虜南倭」と呼ばれる外敵の防衛に追われる事となった。中国東南の沿海には密貿易の拠点が出現し、日本の博多商人や東南アジアのポルトガル人らも参加、王直や徐海らの頭目が活躍する嘉靖大倭寇と呼ばれる状況になる。有力商人や紳士らも活動を支援し、新大陸や日本の銀を仲介。
後期倭寇は明将戚継光らの制圧で活動が沈静化し、1567年には海禁を解除して民間交易を許可。1570年にはモンゴルとも和議が成立。日本でも豊臣秀吉が海賊停止令を行い、倭寇は沈静化する。16世紀から17世紀にかけて大量の銀が海外から明国内に流入するようになり、中国経済に大きな影響を与える事になる。
1616年に成立した清朝は、台湾に拠り抵抗した鄭氏や対南明対策のために海禁を強化する。だが、海外からの銀の流入が停止された事で清国内は一種のデフレ状態に陥って、経済が一時破綻寸前にまで追い込まれた。このため、1684年に鄭氏が降伏すると緩和されるが、1711年からは南方交易の制限が取られ(外国船は対象外)、1757年からは再び広州(粤海関)に限定した一種の保護貿易を行う。アヘン戦争に敗北した後の1842年に締結された南京条約により撤廃され、開国する。
同様の政策は李氏朝鮮や日本の江戸幕府(「鎖国」)など東アジア各国で行われている。