政治将校
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政治将校(せいじしょうこう、英: Political commissar または Political officer)とは主に共産主義の国において、政府(≒共産党)が軍隊を統制する為に各部隊に派遣した将校のことを指す。政府の政治原則を逸脱する命令を発する軍司令官を罷免する権限を有していることもある。軍とはまったく異なる指揮系統に属し、プロパガンダ、防諜、反共思想の取り締まりを担う軍隊内の政治指導者である。なお、政治士官 または政治委員(コミッサール) と呼ばれる場合もある。ウラジミール・レーニンが考案した。
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[編集] フランスの派遣議員
フランス革命は国内のアンシャン・レジームとの戦いであると同時に外国の干渉との戦いでもあった。1793年に第一次対仏大同盟が成立すると、公安委員会は国民皆兵制度に基づく人民軍を編成してこれに対処した。しかし徴兵によって動員された兵士達は士気に乏しく、統制の取れた行動などできなかった。その上軍を指揮する立場にある将校は、敵階級である貴族がほとんどを占めていたため戦場では将校の職務放棄と部隊の離脱が相次ぎ、フランス軍は劣勢に立たされていた。
1793年4月に国民公会はフランス軍に「派遣議員」を設置することを決定した。派遣議員には、将校を逮捕起訴する権限、「人民の名において」革命のための措置を講ずる権限が与えられた。派遣議員の権限は非常に広域かつ広大であり、軍事的に有能な将校であっても「反革命的」行動をとれば直ちに革命裁判所に送致され処刑された。貴族階級の将校は粛清され、派遣議員を通じたプロパガンダにより部隊は士気を取り戻しフランス軍は干渉戦争を戦い抜いたのである。
だが派遣議員の強権的行いや不正行為が明らかになるにつれ、公安委員会は逆に派遣議員の粛清に乗り出すことになった。これに危機感を抱いた派遣議員たちは、公安委員会の独裁打倒を掲げ、テルミドールのクーデターへと動くのである。
[編集] ソビエト連邦の政治委員・政治将校
成立当初の赤軍には正規の軍事教育を受けた者はほとんど存在しなかった。「武装された労働者の革命軍」から「革命を防衛するための国軍」へと再編成するのが急務であった。 革命政権は旧帝政ロシア軍の将校を「軍事専門家」として部隊に配置することとしたが、敵階級でありブルジョワである将校達にも協力する意思はほとんどなく、職務放棄が相次いだ。1918年4月、最高軍事会議直属のコミッサール(政治委員)が全軍に配置された。政治委員は部隊の命令に副署する権限が与えられ、政治委員の副署のない命令には部隊は服従してはならないこととされた。また将校の抗命を抑えるため「射殺を含めあらゆる手段によって、反革命分子に対して非情に対処する権限」(トロツキー)を有すると宣言された。
本来政治委員の職務は軍内部のプロパガンダと政治的忠誠心の保持であり、作戦を司る将校とは権限や指揮系統が完全に分離されていた。しかし政治委員は革命権限の名の下に将校を圧倒し、頻繁に作戦事項に介入して混乱を招いた(二元統帥問題)。こうした事態を受けて1931年に一旦は政治委員制度は廃止された。しかし共産党が軍隊を開放したわけではなく、軍内部のプロパガンダ活動は「指揮官政治補佐」へと引き継がれた。これがいわゆる「政治将校」である。しかし赤軍内部の大規模な粛清が行われると、党員将校を補完する目的ですぐに政治委員制度へと復帰した。
第二次世界大戦中、ニキータ・フルシチョフ、レオニード・ブレジネフなどは政治委員として辣腕を振るう。また、ヒトラーは政治委員を捕虜とせずのコミッサール命令(en)を出していたために捕虜となった多くの政治委員が処刑された。また、作戦が失敗すると政治委員は上層部から強く責任追及され、処刑される者もいた。そのため、政治委員はしばしば部隊に無理な作戦行動を強いて、多大な犠牲を出すこともよく見られた。
その後戦争の危機が去ると政治委員制度は再び廃止され政治将校制度が復活した。結局ソビエト連邦の崩壊までソビエト軍には政治担当部署が存続したのである。ソ連崩壊後、政治将校は無用の長物として当然真っ先に削減の対象となった。しかし第1次チェチェン戦争後、状況は少し変わった。チェチェン紛争時、マスコミを巧みに利用したチェチェン人側のプロパガンダのため、ロシア連邦軍内では、抗命や脱走が相次ぎ、国民中に反戦運動が高まる等、厭戦気運が蔓延した。軍当局は、兵士の心理戦防護と戦争の目的を宣伝する必要性を痛感し、政治将校を復権させつつある。
[編集] 中華人民共和国の政治委員
中国人民解放軍では、八路軍が当初から党の軍隊として組織された経緯から、一般軍人と政治委員の関係は良好であった。1928年の「古田会議(中文)」で軍制度が確認され、政治委員制度が成立した。政治委員にはソビエト軍同様に作戦命令に対する副署権が与えられた。さらに人民解放軍の特徴は、軍内部に共産党支部が設置され、この党支部が作戦事項を決定するとされたことである。これにより共産党自身が作戦の立案をも行うというソビエト軍を遥かに上回る強大な権力が党に与えら得れたのである。政治委員は軍内党支部の書記(責任者)を兼ねていたため、ソビエト軍では不正行為とされた作戦に対する政治委員の介入が公然と認められた。 しかし共産党の基本戦術が中国全土に「解放区」を打ち立て支配する方式であったため、解放区を管理する各地の軍が政治委員(軍委員会書記)の支配下に置かれることになった。これは現在の中国の地方制度支配に連なっていくことになる。
現在でも、政治将校は、部隊長の次席として、第二梯隊や予備隊を指揮する職責にある。
[編集] 共産圏以外の政治将校
共産圏以外では、ヒトラー暗殺未遂後のナチス・ドイツ、蒋経国時代の中華民国軍、革命後にイスラム主義国家となったイラン軍にも政治将校制度が 存在している。
[編集] 参考文献
- 川島弘三 『社会主義の軍隊』 講談社現代新書、1990年
[編集] 関連項目
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