斎藤利良
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斎藤 利良(さいとう としなが、生没年不詳)は室町時代の武将である。美濃国斎藤氏持是院家の斎藤利親の嫡男。幼名勝千代。新四郎と称す。
美濃国守護土岐政房に仕えたが、その後継をめぐり意見が対立した。利良は政房の嫡男土岐頼武を推し、政房は次男土岐頼芸を推した。それぞれ派閥を組み、永正14年(1517年)12月27日には遂に合戦となる。この合戦は利良(頼武派)の勝利に終わり、頼芸派は永正9年(1512年)に尾張へ亡命した前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り合い、逆襲の機会を狙った。
永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。斎藤彦四郎は美濃に再入国し、逆に頼武と利良は、利良の伯母の嫁ぎ先である越前の朝倉氏を頼って亡命した。頼芸派は室町幕府に御内書を出してもらい、頼武を上洛させるよう朝倉氏に迫ったが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。この間も美濃国内で頼武派と頼芸派の合戦が続いている。
永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景は弟の朝倉景高に美濃出陣を命令、景高は兵3000を率いて頼武、利良とともに美濃に侵攻、連戦連勝し、頼武は美濃守護となることができた。
頼武政権下で利良は守護代として力を揮うが、永正18年(1521年)には史料から姿を消し、斎藤利茂が新守護代として登場する。失脚して殺害されたか。