新島襄
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新島 襄(にいじま じょう、英字表記:Joseph Hardy Neesima、天保14年1月14日(1843年2月12日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、日本の武士・安中藩士、キリスト教の布教家。同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者。
江戸の神田に安中藩士の子として生まれる。福沢諭吉らとならび、明治の六大教育家の一人に数えられている。
本名を七五三太(しめた)と言うが、アメリカ合衆国への密航中に潜伏先の船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、帰国後は「譲」、「襄」と名乗った。
大隈重信と親交があり、現在同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)があるのはそのためである。当初密入国者として渡米した彼であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可される。現地で木戸孝允と知り合い、襄の語学力に目をつけ木戸は、明治5年3月9日(1872年4月16日)から翌年1月にかけて、自分付けの通訳として岩倉使節団に参加させている。新島は、この使節団に参加する形で、ニューヨークからヨーロッパにわたり、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。
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[編集] 経歴
- 天保14年1月14日(1843年2月12日) 上州安中藩板倉家江戸屋敷で新島襄(幼名七五三太)誕生。
- 元治元年6月14日(1864年7月17日) 21歳。国禁を犯して函館から米船ベルリン号で海外に脱出。
- 慶応元年(1865年)7月 ボストン着。
- 10月 上海で乗りかえたワイルド・ローヴァー号の船主A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。
- 慶応2年(1866年)12月 アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。
- 慶応3年(1867年) 24歳。フィリップス・アカデミー卒業。アーモスト大学入学。
- 明治3年(1870年) 27歳。アーモスト大学卒業。理学士の学位を受ける。8月10日(9月5日)、祖父(弁治)死去(84歳)。アンドーヴァー神学校入学。
- 明治5年(1872年) 岩倉使節団と会い、欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を視察。
- 1873年(明治6年) 2月13日からリューマチの治療のためにヴィースバーデン(ドイツ)で湯治する。
- 1874年(明治7年) 31歳。アンドーヴァー神学校卒業。
- 1875年(明治8年)11月29日 親交のあった高松保実より屋敷の一部を借り、官許同志社英学校開校。京都府知事槇村正直、府顧問山本覚馬の賛同を得、開校。教員は新島襄とJ.D.デイヴィス。生徒8人であった。新島襄初代社長に就任。
- 1876年(明治9年)1月 山本覚馬の妹・八重と結婚。
- 1880年(明治13年)4月13日 朝礼の際、新島は自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓す。「自責打掌」事件。
- 1884年(明治17年)4月 2度目の海外旅行に出発(1885年(明治18年)12月帰国)。
- 1888年(明治21年)11月 「同志社大学設立の旨意」を全国の主要な雑誌・新聞に発表。
- 1890年(明治23年)1月23日 新島襄永眠。募金運動中に前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館百足屋で、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して永眠(47歳)。
[編集] トリビア
[編集] 関連事項
- 金森通倫
- アーモスト(アマースト)大学
- アンドーヴァー神学校
- 同志社英学校
- 同志社大学
- 東華学校-初代校長を務める
- 新島学園
- 新島民治(にいじま たみじ):江戸時代の安中藩士で、新島襄の父。新島襄の伝道によりキリスト教に改宗。
- 新島八重(にいじま やえ、弘化2年(1845年) - 1932年(昭和7年)):新島襄の妻で、山本覚馬の妹。福島県出身。新選組の斉藤一の妻が、会津での八重についての言葉を残している。享年88。
- フィリップス・アカデミー
- ワイルド・ローヴァー号
[編集] 外部リンク
- 新島遺品庫資料の公開(同志社大学)