新納忠元
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新納 忠元(にいろ ただもと、大永6年(1526年) - 慶長15年12月3日(1611年1月16日))は島津氏の家臣。武蔵守。父は新納祐久。子に新納忠堯。
島津氏の庶流の一族で、智勇に優れた名将であったことから重用された。島津貴久と島津義久の二代にわたって仕え、1562年の横川城攻めや1572年の木崎原の戦い、1581年の水俣城攻めなどで活躍し、「鬼武蔵」の異名で恐れられた。和歌にも通じており、相良氏攻略時の有名な逸話として、水俣城の守将であった犬童頼安と和歌を読みあいながら争ったといわれている。 豊臣秀吉の九州征伐時も徹底抗戦を主張し、主人である島津義久の弟義弘が降伏するに及んでようやく秀吉に降伏した。
薩摩国大口の地頭を務める。現在大口市には「忠元公園」がある。
朝鮮出兵のときは、薩摩の留守居を任された。関ヶ原の合戦時は出陣こそしなかったものの、島津義弘の帰国後加藤清正の来攻に備え国境を固めた。
島津忠良から島津氏に無くてはならない重臣としてまで評された人物であるばかりか、忠元は豪胆な人物でもあった。たとえば、1569年に大口城を攻めたとき、忠元は負傷しているにもかかわらずに戦場を駆け、その武勇は『鬼神の如し』と評された。また、1574年には牛根城にて一年以上も籠城を続ける敵将を降伏させるために、自らの身柄を人質として差し出したりもしている。