日本の経済史
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日本の歴史 |
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日本の経済史(にほんのけいざいし)とは、日本経済の歴史である。 19世紀後半から大国に至るまでと、第2次世界大戦の荒廃から世界第2位の経済大国に成るまでは世界で最も研究されている経済史のひとつである。
目次 |
[編集] ヨーロッパ人との接触 16世紀
詳細は南蛮貿易参照
ルネッサンス期の16世紀にヨーロッパ人は日本に到着し、極めて日本を賞賛した。マルコポーロが金の寺や宮殿の説明をしていたので、日本は黄金の国と考えられていた。しかし、火山地形による表層の鉱石の豊かさにより、大規模の鉱石発掘がされる前に工業の時代に突入した。日本はこの時代に銅と銀の主輸出国となった。
日本はこの時代、豊富な前工業時代的技術と高い文化を兼ね備えた洗練された封建社会であった。ヨーロッパ諸国よりも人口は多く都市化されていた(16世紀、日本の人口は2600万人で、フランスとイングランドの人口は450万人)。 初期に到着したヨーロッパ人たちは日本の職人の技能と金属細工に驚かされた。それは日本は鉄鉱石に乏しいという事実から来る。それゆえ日本人はその限りある資源を職人の技術で有効利用することで有名となった。銅と鉄の品質は世界最高で、その武器は最も鋭く、紙の技術は並ぶ国がなかった。
[編集] 南蛮貿易
ポルトガルの船(毎年、通常大体小さなサイズの4艘の船)がほとんど中国の商品(絹、磁器)をつんで日本に来ていた。日本人はそれをとても待望していた。しかしながら倭寇を懲罰するために中国皇帝にその貿易は禁止された。それゆえポルトガルはアジアの貿易の仲介役を見つけて貿易した。
1557年ポルトガルがマカオを取得し、中国と正式な貿易パートナーとして認められるとポルトガル国家は日本への貿易を制限しだし、最高落札者に日本との交易を認めた。協議の結果、1艘の1,000-1,500トンのキャラック船(武装商船:大きなジャンク船やガレオン船の2,3倍の大きさ)に毎年排他的に交易する権利が与えられた。この交易は途中中断しながら1638年まで続けられた。キリスト教の司祭を日本に輸入しだした時、その貿易は禁止された。
ポルトガルとの交易は次第に中国のジャンク船との貿易に圧迫され、1592年に朱印船貿易(大体、年10艘ぐらい)が始まり、1600年からマニラからスペイン船が(大体、年1艘)、1600年からオランダが、1613年からイギリスが貿易した。
ヨーロッパ人は南から来たので南蛮人と呼ばれたが、その中でオランダ人は紅毛(こうもう)とよばれた。1600年リーフデ号が日本に漂着し、ウィリアム・アダムスがイギリス人として初めて日本に到着した。1605年徳川家康の命でリーフデ号の乗組員の2人がタイのパッターニーのオランダ人に日本と交易するように招待するために送られた。パッターニーのオランダ交易所の所長のVictor Sprinckelは南アジアで敵対するポルトガルとの折合いをつけるのに忙しかったので上陸を拒んだ。しかし、1609年オランダ人のJacques Specxは2艘の船で平戸にたどり着き、ウィリアム・アダムスを通じて家康から貿易許可を戴いた。
その後1638年以降は西洋人としてオランダのみ出島で2世紀に渡り、交易することとなった。
[編集] 江戸時代
江戸時代の始まりは南蛮貿易の終わりと重なり、ヨーロッパ人との経済的、宗教的に交易がある程度の域に達した。江戸時代始めには日本初のヨーロピアンスタイルの遠洋航海用ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号(500トン)が日本の支倉常長使節団をのせてヨーロッパ経由でアメリカに航海した。この時代、幕府は350艘の、3本マストの武装交易船の朱印船に許可をだした。山田長政のようにアジアで活躍した冒険家も現れた。 その後キリスト教の影響をとめるため幕府は鎖国をした。しかしながら朝鮮、中国、オランダとは出島にて貿易をする事を認められた。19世紀の中期には江戸は100万人都市となり、京都と大阪は40万人都市となった。江戸は米中心の経済であり、税金の徴収のため表記が米で表された。例えばその土地に米を生産する事が出来なくてもその経済規模を何万石の米相当と判断して其れに課税をした。税率は40パーセントぐらいで他のアジア諸国と比べると格段に高い数値を示している。これにより江戸時代を農民が搾取されていたとする見解がある。が、実は換金作物(大豆、綿、等)には税金がかからず、普通の土地持ちの百姓はそこそこな生活をしていたという見解もある。大名は米を主に税金として集めたが江戸時代は貨幣経済なので何かするときは換金する必要がある。大名は不作時も豊作時も安定した換金が必要となり、大阪の堂島米会所(1730年)で世界で初めての先物取引が開始された。いわゆる青田買いである。これはCMEシカゴ・マーカンタイル取引所(1819年)(現在の穀物先物相場の世界的中心)の設立より100年以上も前のことである。
[編集] 明治時代
19世紀の中ごろから徳川政権は西洋の影響と商取引に門戸を開けた。それから日本は2期間に渡り経済的発展をする。最初の期間は明治維新から第二次世界大戦までで、次の期間は1945年から1990年ごろまでである。どちらの期間も日本は西洋の知識と影響を受け入れ経験豊富な革新的社会、政治、そして経済的変化をもたらした。入念にその影響圏を発展させた大国となった。どちらの時期もその国家目標は国家独立の危機に対する大国化である。どちらの期間も日本政府は民間企業の改革を推奨し、経済変動を起こした。その結果2期間とも日本はその独立が揺るがないほどの大国と化した。
19世紀の中ごろ大政奉還で明治政府が樹立すると鎖国を解き、西洋との貿易をはじめ驚異的影響と経済発展が起こった。 明治時代(1868-1912)にその首脳部は普通義務教育を国民に課し欧米に幾多の国家奨学生を送った。そして3000人以上の欧米の技術者、近代科学者、数学者、いわゆるお雇い外国人を雇った。そして明治政府は鉄道、道路、農地改革、等を国家開発のため推し進めた。
工業化を推し進める為に、明治政府は民間企業に最高の施設を提供し、経済発展を促した。政府の役割の一番大切な事は分野ごとの経済発展を推し進める事であった。つまり明治政府は商業の案内人、ビジネスプロデューサーとなった。明治時代の初期に政府は工場や造船所を作り、それを企業家に格安で払い下げ税率をさげた。政府は民間会社の世界に通用する大規模化を後押しし、いわゆる財閥がこの時誕生した。