南蛮貿易
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日本の歴史 |
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南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人とスペイン、ポルトガルの商人(南蛮人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易である。
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[編集] 概要
1543年に種子島にポルトガル船が漂着し、火縄銃を売ったのが始まりだとされている。そして、南蛮人との貿易に繋がるようにフランシスコ・ザビエルらイエズス会の宣教師を各地の戦国大名が受け入れるようになった。大村氏、有馬氏、大友氏がその戦国大名の代表的な例である。
織田信長に続いて豊臣秀吉も南蛮貿易を進めていたが、土佐国にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した時、乗組員からキリスト教の布教活動によって植民地拡大を狙っているという話が伝わり、警戒した秀吉はバテレン追放令を出した。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。しかし、その後江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止されるなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
[編集] 南蛮貿易でもたらされたもの
[編集] 火縄銃
火縄銃(種子島)はポルトガルの銃を模倣したものである。1543年、ポルトガル人Fernão Mendes Pintoが中国船で鹿児島県の種子島に漂着した。その際最初の3丁の銃が日本に輸入された。その際の地名を取って火縄銃のことを種子島と呼ぶようになった。厳密に言えば270年ほど前に日本には火薬は中国から輸入され原始的な鉄砲と呼ばれる銃は日本国内に存在はしていた。しかし火縄銃(マッチロック式で容易に点火出来る銃)の伝来は戦国時代の戦闘を一新させた。
[編集] 朱印船
それまで船といえば船底が平たい和船と呼ばれる船しかなかった。これでは海洋に出たときに波で船が揺れ遠洋航海は危険極まりないものであった。南蛮貿易が始まるとヨーロッパからガレオン船と呼ばれる竜骨を使った現在我々が普通に見る船底が尖った波の揺れに強い船が入港されるようになった。ガレオン船の影響を受け、朱印船貿易をする船は次第に竜骨を使ったヨーロッパ方式の船に変わっていった。しかしながら江戸時代になると、鎖国を強いた江戸幕府は竜骨を使った船の製造を禁止して元の和船しか日本に存在しなくなった。
[編集] 関連項目
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