日野資朝
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日野資朝(ひの すけとも、1290年(正応3年) - 1332年6月25日(元弘2年/正慶元年6月2日))は、鎌倉時代後期の公家である。父は日野俊光。権中納言。
1321年に後宇多院に代わり親政をはじめた後醍醐天皇に重用されて後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢にいた。1324年に計画が北条氏が朝廷監視のために設置していた京都の六波羅探題に察知された正中の変では日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる。1331年に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の変が起ると、資朝は佐渡で処刑される。
資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。また古典『太平記』には資朝の子の阿新丸(くまわかまる)が敵討ちを遂げるエピソードも記されている。
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[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)
- 1314年(正和3)11月19日、従五位下に叙し、蔵人に補す。
- 1317年(文保元)2月5日、右少弁に任官。 12月22日、左少弁に遷任。
- 1318年(文保2)1月22日、従四位下に叙し、左少弁如元。 2月26日、花園上皇の院司に連なる。 5月28日、文章博士を兼任。 8月24日、記録所寄人に補す。 10月6日、従四位上に昇叙し、左少弁・文章博士・記録所寄人如元。 11月3日、左少弁を去り、権右中弁に転任し、文章博士・記録所寄人如元。
- 1319年(文保3)3月9日、右中弁に遷任し、文章博士・記録所寄人如元。 改元して元応元年8月5日、春宮(後二条天皇の皇子邦良親王)亮を兼任。
- 1320年(元応2)3月24日、蔵人頭に補任し、右中弁・文章博士・春宮亮如元。 10月22日、右兵衛督を兼任。
- 1321年(元亨元)4月6日、参議に補任し、左兵衛督を兼任。時に正四位下。文章博士如元。
- 1322年(元亨2)1月6日、正四位上に昇叙し、参議・左兵衛督・文章博士如元。 1月26日、山城権守を兼任。 6月17日、文章博士を止む。
- 1323年(元亨3)1月5日、従三位に昇叙し、参議・左兵衛督如元。 1月13日、検非違使別当に補任し、参議・左兵衛督如元。 11月5日、検非違使別当を辞す。 11月6日、勅使として鎌倉に下向。
- 1324年(元亨4)4月27日、権中納言に転任。 某月某日、権中納言を辞任。 9月19日、正中の変(この日は、まだ元亨4年だが、12月9日に正中と改元している)により逮捕される。
- 1325年(正中2)8月某日、佐渡国に配流となる。
- 1332年(元弘2/正慶元)6月2日、斬首となる。享年43
- 1876年(明治9)5月某日、佐渡市真野鎮座の真野宮に祭神として合祀される。
- 1884年(明治17)2月22日、贈従二位。
斎祀神社:佐渡市吉岡鎮座の大膳神社。 佐渡市真野鎮座の真野宮。 奈良県吉野町鎮座の吉野神宮
[編集] 『徒然草』に見える人間像
徒然草の中にある資朝の逸話は、先入観に惑わされず大胆剛毅なその気象を伝えている。
- 第152段
西大寺の静然上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまゐられたりけるを、西園寺内大臣殿、「あなたふとの気色にや」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、尨犬の浅ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色尊くみえて候」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。
- 第153段
為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち圍みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。
- 第154段
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、もつとも愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほに珍しからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。さもありぬべき事なり。
[編集] 参考文献
- 佐々木八郎「日野資朝卿」冨山房 1940年(昭和15)発行