六波羅探題
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六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。それぞれ、六波羅探題北方・六波羅探題南方と呼ぶ。
[編集] 概要
承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれた。以前に幕府の支配下にあった土地に置かれた地頭を本補地頭と呼ぶのに対して、これを新補地頭という。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴むために白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にした。
そのため、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたった。西国の御家人を組織し直し、京都の警備、朝廷の監視、軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まりである。探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方、南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。またその下には評定衆などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。
六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などのトラブルを処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。更に文永の役翌年の建治元年(1275年)には六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。だが、一方では権限に伴う実際の強制力は十分とは言えなかった。例えば、幕府の命令で有力寺社への処分を行った担当官吏が、後に相手側の僧兵の圧力に屈した幕府によって流刑などの重い処分を受けるという理不尽な事態も少なくなかった。また、幕府から直接派遣された「東使」と称される特使が朝廷との直接交渉や探題への指揮の権限を与えられるケースもあり、その権限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言ってよい。従って、その事情をよく知る者の中には六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われている。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、令旨に応じた足利高氏(尊氏)や佐々木道誉、赤松円心らに京都を攻められ、北条仲時らは京を追われて滅亡する。その跡地は現在、京都市立六原小学校になっている。ちなみにその近くに六波羅蜜寺がある。
[編集] 六波羅探題一覧
- 六波羅探題北方
- 北条泰時(得宗家) 1221年 - 1224年 →執権
- 北条時氏(得宗家) 1224年 - 1230年
- 北条重時(極楽寺流) 1230年 - 1247年
- 北条長時(極楽寺流赤橋氏) 1247年 - 1256年 →評定衆→執権
- 北条時茂(極楽寺流常盤氏) 1256年 - 1270年
- 北条義宗(極楽寺流赤橋氏) 1271年 - 1276年
- 北条時村(政村流) 1277年 - 1287年
- 北条兼時(得宗家) 1287年 - 1293年 南方より
- 北条久時(極楽寺流赤橋氏) 1293年 - 1297年
- 北条宗方(得宗家義時流)1297年 - 1300年
- 北条基時(極楽寺流)1301年 - 1303年
- 北条時範(極楽寺流常盤氏)1303年 - 1307年
- 北条貞顕(金沢流) 1311年 - 1314年 →連署→執権
- 北条時敦(政村流) 1315年 - 1320年 南方より
- 北条範貞(極楽寺流常盤氏)1321年 - 1330年
- 北条仲時(極楽寺流) 1330年 - 1333年 1333年滅亡
- 六波羅探題南方
- 北条時房(時房流) 1221年 - 1225年
- 北条時盛(佐介流) 1224年 - 1242年
- 北条時輔(得宗家) 1264年 - 1272年
- 北条時国(佐介流) 1277年 - 1284年
- 北条兼時(得宗家) 1284年 - 1287年 北方へ
- 北条盛房(佐介流) 1288年 - 1297年
- 北条宗宣(大仏流) 1297年 - 1302年 →評定衆→連署→執権
- 北条貞顕(金沢流) 1302年 - 1308年 1311年から北方。
- 北条貞房(大仏流) 1308年 - 1309年
- 北条時敦(政村流) 1311年 - 1315年 北方へ
- 北条維貞(大仏流) 1315年 - 1324年 →評定衆→連署
- 北条貞将(金沢流) 1324年 - 1330年
- 北条時益(政村流) 1330年 - 1333年 1333年滅亡