景泰帝
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姓名 | 朱祁鈺 |
年号 | 景泰 |
廟号 | 代宗 |
字 | - |
諡号 | 康定景皇帝 |
生没年 | 1428年-1457年 |
在位 | 1449年-1457年 |
景泰帝(けいたいてい、1428年 - 1457年 在位1449年 - 1457年)は中国明朝の第七代皇帝。諱は祁鈺(きぎょく)(鈺は金偏+玉)。諡号は景帝。廟号は代宗。日本では元号を用いて景泰帝と呼ぶ事がほとんどである。
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[編集] 生涯
宣徳帝の次子として生まれる。土木の変で英宗がオイラトに囚われると群臣は狼狽し南京遷都を評議し始めたが、兵部侍郎(軍事次官)の于謙は「南遷の事を言う者は斬るべし!南に逃れた宋がどうなったか忘れたか!」と衆議を一喝し、南遷案を止めさせた。そして皇太后孫氏の命により祁鈺が皇帝となった。
景泰帝はまず土木の変の最大の責任者である王振の一族を皆殺しにし、財産を没収した。
そして于謙を登用し、オイラトの北京包囲に良く耐えた。オイラトのエセンもこの遠征は元々明に朝貢の時の優遇を求めての物であり、包囲が長く続くと経済的に苦しくなるので、和議が成立した。英宗も送還されてきたが、景泰帝はこれを軟禁し、上皇とした。その代わり皇太子には英宗の息子朱見深(後の成化帝)をつけた。
変後の景泰帝は于謙を信任し崩壊した北防体制を建て直した。
その後、一度は朱見深を皇太子に立てた景泰帝だが、やはり自らの息子に帝位を継がせたくなり、1452年(景泰三年)に息子の朱見済を皇太子に立てた。この時に景泰帝が反対する臣下をなだめるために金を送ったので、後に「臣下に賄賂を贈る皇帝」と物笑いの種になった。
苦労して立てた皇太子だが、その翌年に死んでしまった。これに気落ちしたのか、1457年に景泰帝は病気になった。後継者を決めるように臣下から請願されるが、景泰帝は決めようとしない。景泰帝の子供は死んだ皇太子以外は全て女であった。
この状況に元皇帝の英宗に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは権力奪取を狙い、英宗を軟禁されている宮殿から兵を使って強奪し、擁立した。
病床の景泰帝は抵抗できず、その後まもなく死去した。(暗殺説も有力。)
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 廃后汪氏
- 妃杭氏
[編集] 子
- 懐献太子朱見済
[編集] 女
- 固安公主(英宗の復辟により郡主に降格)
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