土木の変
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土木の変(どぼくのへん)(土木之变 Tŭmù zhī bìan、the Tumu Crisis)とは、正統14年(1449年)9月8日、貿易の拡大を求め、オイラトの指導者エセンが明領に侵攻したのに対して、自ら親征を行った中国明朝の英宗正統帝が、土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)の地でエセンに大敗を喫し、正統帝自身も捕虜となった戦いを指す。中国史上、皇帝が野戦で捕虜となった空前絶後の事件として知られる。
明の兵部尚書于謙が果断な対処を行ったために、エセンは大勝を収めたにもかかわらず正統帝を無条件釈放せざる得ず、この戦いは明朝にとっては致命的な打撃には至らなかったが、明がその後100年以上にわたりモンゴル高原の遊牧民(いわゆる「北虜」)の間断ない侵攻に悩まされる端緒となった。
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[編集] 戦いの原因
オイラトは、遊牧国家の常としてその経済を交易に依存しており、中国の物産を安定的に入手することが不可欠であり、もともと明との間で朝貢貿易を盛んに行っていた。朝貢貿易においては、朝貢の恩賞の名目で与えられる金品の量は使節の人数に比例するが、エセンの時代に急速に勢力を拡張したオイラトは、より多くの交易品を得るために明から指定された50人の使節定数を超えて送り込むようになり、1440年代には1000人を越え、さらに年々その数は膨張した(この使節の中には、中央アジアから来たムスリム商人が多く含まれていたとされる)。
1448年冬、オイラトは使節の派遣にあたり、3598人が朝貢すると明に連絡した。あまりにも多い使節に対する恩賞の交付は明にとっては財政上の負担が大きく、またこの年に実際にやってきた使節の実数を調べたところ、3598人の名目は実数より大幅に水増しされていたことが判明した。ここに至って明はこれまでどおりオイラトの使節に望むだけの恩賞を与える方針を改め、1448年の使節に与える恩賞を3598人分の2割程度まで減らした。さらにエセンは、この朝貢使節の派遣に際して、かねて約束していたとして明の皇女との結婚を明の朝廷に申し出たが、実はその約束は明の通訳官たちが朝廷に無断でエセンとの間で結んでいただけのものに過ぎなかったので、明はそれを完全に否定した。
エセンにとっては、明との朝貢貿易を利用した交易による利益によってオイラトの統一を保たねばならなかったので、明の方針転換は死活問題であった。このため、明に対する侵攻によって、エセンは掠奪した戦利品の分配で支配下の遊牧民の忠誠を繋ぎとめ、また明の朝廷に対しては、軍事力によって従来どおりの朝貢貿易の復活を迫ろうとした。またこの侵攻は、結婚の申出の失敗によって傷つけられた名誉と、配下に対する面目を取り戻すための、明に対する報復でもあった。
[編集] 経過
1449年7月、エセンは名目上の主君であるモンゴルの大ハーン、トクトア・ブハと協同し、陝西・山西・遼東の3方向より明領に侵攻を開始した。中央の軍を率いて山西に侵攻したエセンは、8月、騎兵2万を率い大同へ軍を進めた。当時、明朝で権勢を掌握した宦官の王振は朝廷の群臣の反対にもかかわらず、22歳の皇帝正統帝に対し、軍隊を差し向けることを勧めた。王振を総司令官とし、約50万人の大軍が急遽召集され、20人の経験ある将校と多くの高級官僚からなる軍隊が構成された。
8月3日、エセンは長城内にて急遽徴集された明軍と衝突した。同日、正統帝は異父弟、朱祁鈺(後の景泰帝)に留守を任せ、翌4日、北京を発った。皇帝の軍は北京から居庸関を通過し、宣府(現在の河北省張家口市宣化区)を経由して、大同へ向かって西へ、草原地帯の中を進軍した。その後、蔚州(現在の張家口市蔚県)の駐屯地を通る南寄りの道を通って北京に引き返すことになっていた。
当初、明軍の進軍は、豪雨により泥濘にはまってしまった。居庸関では、高級官僚と将校は北京帰還を要求したが、王振によりその意見は退けられた。8月12日、廷臣の複数名は王振暗殺を議論した。8月16日、明軍は長城内の死体が散乱した戦場に到着した。8月18日、大同に到着した時、王振に推挙された駐屯地の司令官は、王振に草原地帯への進軍は危険すぎると報告した。ここに至ってオイラト軍の猛威を悟った王振はその脅威を恐れ、この「進軍」は勝利に帰結したと宣言し、8月20日軍隊は北京へ向け出発した。
王振は、南寄りの道を通って北京に向かい、蔚州に行けば動揺した兵士たちが反乱を起こすと怖れて、北東方向へ彼等が来た道をそのまま引き返して、北京に戻ることを決定した。しかし長城に近いこの道を通ることで、明軍は機動力に勝るオイラトの騎兵に側背を襲われることになった。
8月27日、明軍は宣府に到着した。8月30日、エセンは宣府の東方に展開する明軍の後衛を攻撃し一掃した。8月31日、正統帝の率いる軍隊は土木堡で野営していたが、「(45㎞先の)懐来という都市に皇帝を避難させる」という部下の提案を王振は退けた。
エセンは、明軍陣営の南方にある川からの水を断つべく軍隊を急行させた。9月1日の朝までに彼らは明軍を包囲した。王振はいかなる交渉も拒絶し、軍隊を南方にある川へ動くよう命令した。オイラト軍は大挙して明軍を攻撃し殲滅、大量の武器や防具を獲得した。明軍の全ての高級官僚と将校が殺された。いくつかの報告によると、王振は将官の樊忠に暗殺された。正統帝は9月3日、捕縛され宣府郊外のエセンの陣営に連行された。
明軍の遠征は不要なものであり、十分に計画が練られ準備されたものではなかったことが、この大敗を招いた。50万を数えたといわれる明軍に対するオイラトの完勝は、わずか2万の騎兵によってもたらされたものであった。
[編集] 土木の変後の経過
予想外の大勝にエセンもまた、皇帝捕縛に対し全く準備していなかった。エセンは北京の明朝廷に皇帝の身代金を要求し、より有利な条件で講和を結ぼうとはかった。
他方の北京では、皇帝捕縛の情報が伝わると、兵部尚書于謙等は朱祁鈺を皇帝に擁立し、正統帝を太上皇とした。また于謙らは、皇帝の身柄のためにオイラトに譲歩すれば明の存亡にかかわると考え、身代金の支払いを拒否した。また、この時、明の朝廷の中では南京への遷都を主張する者があらわれたが、于謙らはあくまで北京を固守しようと主張し、朝廷内は2派に分かれた。
同年10月、身代金の支払いが行われないことに焦ったエセンは再び長城を越えて明領へと侵攻し、北京を包囲した。この戦いに際し、北京の住民は遷都を否定する于謙を支持し、城塞を固く守りとおしたので、エセンはまたも身代金の受け取りを諦めて撤退せざるを得なかった。
また明の朝廷は、トクトア・ブハ・ハーンらエセン以外のモンゴル高原の有力者に働きかけて、朝貢貿易を部分的に復活させ、身代金の支払いを求めて和平交渉が滞っていた指導者エセンを孤立させようとはかった。これに焦ったエセンは、土木の変の翌1450年、正統帝を無条件で明へと帰し、不利な条件での和平と明との貿易再開を受け入れた。これをきっかけにハーンとの関係を悪化させたエセンはトクトア・ブハ・ハーンを殺し、1453年に自らハーンを称したが、翌年に部下のアラク知院に滅ぼされ、その帝国は土木の変からわずか5年で崩壊した。
[編集] 参考文献
- 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年(河出文庫、1990年)
- 若松寛(責任編集)『アジアの歴史と文化7 北アジア史』同朋舎、1999年