成化帝
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姓名 | 朱見深 |
年号 | 成化 |
廟号 | 憲宗 |
字 | - |
諡号 | 継天凝道誠明仁敬崇文粛武宏徳聖孝純皇帝 |
生没年 | 1447年-1487年 |
在位 | 1464年-1487年 |
成化帝(せいかてい 1447年 - 1487年 在位1464年 - 1487年)は中国明朝の第九代皇帝。諱は見深(けんしん)。廟号は憲宗(けんそう)。日本では元号で成化帝と呼ぶのがほとんどである。
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[編集] 生涯
英宗の長子として生まれる。土木の変により景泰帝が立つと皇太子に立てられるが、後に廃され、更に奪門の変により英宗が復位するとまた皇太子に立てられる。
皇帝となった後の成化帝は道教、仏教にのめり込み、怪しげな道士や僧を身近に置き、道士を礼部侍郎(文部次官)に任命するなど、乱れた生活を行った。道士や僧達は伝奉官と呼ばれ、特にすることも無いのに皇帝の傍に侍り、高給を食んでいた。
また成化帝は汪直らの宦官による諜報機関である西廠を発足させ、臣下を監視させた。
成化帝は私生活では寵姫の万貴妃に牛耳られており、成化帝が他の妃を身篭らせると万貴妃により堕胎させられるのが常であった。万貴妃との間には男子が生まれたが、この子は早くに死んだ。
年老いて後を継ぐ子供の無い事を嘆いた成化帝は側近の宦官に万貴妃の手を逃れて密かに育てられた皇子がいる事を知らされる。後の弘治帝、朱祐樘である。(樘は木偏+堂)。万貴妃は怒り朱祐樘を毒殺しようとするが朱祐樘はこれを回避し、万貴妃は失敗した事で憤死した。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 廃后吳氏
- 孝貞純皇后
- 孝穆皇后
- 孝恵皇后
- 恭粛貴妃
- 賢妃
- 徳妃
- 安妃
- 敬妃
- 恭妃
- 端妃
[編集] 子
- 悼恭太子朱祐極
- 朱祐樘
- 興献王朱祐杬
- 岐恵王朱祐棆
- 益端王朱祐檳
- 衡恭王朱祐楎
- 雍靖王朱祐枟
- 寿定王朱祐楮
- 汝安王朱祐梈
- 涇簡王朱祐橓
- 栄庄王朱祐枢
- 申懿王朱祐楷
[編集] 女
- 仁和公主
- 永康公主
- 徳清公主
- 長泰公主
- 仙游公主
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