更科 (蕎麦屋)
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更科(さらしな)は、蕎麦屋の老舗のひとつ。蕎麦屋の老舗としては、砂場・藪とあわせて3系列が並べられることが多い。
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[編集] 歴史
創業は1790年と伝えられている。信州の織物の行商人をしていた清右衛門なる者が、江戸での逗留先としていた麻布・保科家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめた、とされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時は「布屋 信州更科蕎麦所布屋太兵衛」との看板を掲げていたという。「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級と保科家の科の文字を組み合わせたもの。なお、信州は当時より蕎麦の産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようである。
更科の特徴は、精製度の高い蕎麦粉(更科粉)を使った白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期~明治時代のことと考えられている。
更科は、1880年代まで、のれん分けなどを一切しておらず、一軒のみでの営業だった。のれん分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のこととされる。
[編集] 3つの更科
昭和恐慌による出資先である麻布銀行の倒産、戦時体制による統制などに加え、七代目松之助の放蕩がダメ押しになり昭和16年に廃業。戦後、七代目松之助から店名使用の許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開業する。店名の使用につき裁判となるが、七代目が馬場に渡した承諾書がでてきたため和解。馬場側が「永坂更科本店」の永坂と更科の間をあけ「麻布永坂 更科本店」とし、「永坂更科」を強調しないことで合意する。
かつての更科とは無関係の人間による出店を受け、七代目松之助、麻布十番商店街店主である小林勇などが中心となり、昭和24年「永坂更科 布屋太兵衛」を再興。このとき、法人として「永坂更科」を商標登録してしまう。やがて、八代目松之助が独立するが、屋号に「布屋」を用いていたため永坂更科布屋太兵衛側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助は布屋を名乗れず、自身の苗字である「堀井」をつけ店名を「総本家更科堀井」に改称。
このため、現在は「総本家更科堀井(信州更科布屋総本家)」「麻布永坂 更科本店」「株式会社永坂更科布屋太兵衛」の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。
[編集] 外部サイト
[編集] 参考文献
- 『蕎麦屋の系図』岩崎信也著(光文社新書) :ISBN 4-334-03211-7
- 『蕎麦屋のしきたり』藤村和夫著(日本放送出版協会、生活人新書) :ISBN 4-14-088001-5