曹芳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曹芳(そう ほう)は、姓を曹、名を芳、字を蘭卿といい、三国時代の魏の第三代皇帝(斉王 232年-274年 在位239年-254年)である。
目次 |
[編集] 略要
[編集] 曹芳の出目
先代の皇帝・明帝(曹叡)の子が相次いで夭折したために、斉王芳と秦王詢の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。だが、その経歴ははっきりと判明されていない。一説では、済南王・曹楷(武帝曹操の孫で、曹彰の嫡子)の子ともいわれている。青龍三年235年斉王に立てられた。斉王はまだ幼かったために、大将軍の曹爽と太尉の司馬懿が補佐につき政務を取り仕切った。243年に元服。この年に卑弥呼が朝貢している。244年には曹爽が蜀へ討伐に向かうが失敗に終わっている。246年に毌丘倹(毌は毋に似ているが別字)が高句麗を討伐している。249年に司馬懿がクーデターを起こし曹爽一族、一門を追放・誅殺し、これ以降、魏は事実上司馬懿一族の支配するところとなる。251年司馬懿が死去。司馬師が後を継ぐ。254年斉王の中書令の李豊と側近の夏侯玄、皇后の父・張緝らが司馬師を追放しようと計画するが失敗に終わり、関係者は全て誅殺された。
この事件より司馬師は皇帝の廃位を計画し、成人になるのに政務をせずに色欲にふけっていると言う理由で同年廃立され、斉王に引き戻された。時に数えで23歳であった。
[編集] 廃位について
司馬師による曹芳廃位においては、近年では賛意する意見も多い。勿論、史書の中には魏の後継王朝となった晋を正当化するため、曹芳を暗愚に描いたものも少なからずあろうが、実は司馬師の廃位の理由で述べた「成人になるのに政務をせず、色欲にふけっている」は間違いでもないのだ。正史においても、曹芳は成人しても子供のように振る舞い、後宮には役者を入れて快楽にふけっていたという不行跡の多くが詳細に描かれている。裴松之の史書でも、曹芳に関して描かれた不行跡が少なくない。仮に司馬師が曹芳を廃さなかったとしても、このような皇帝では、いずれ廃されたであろうし、司馬師が挙げた理由が、自身を正当化するだけのものでなかったことは確かであろう。 とはいえ、曹芳の事績としては、道路を造ったとか、その道路を廃したまたそのようなことを繰り返したというような事績しかない。それは、皇帝の存在を細々と世間に知らしめているかのようで、ほとんどの権力を司馬氏に奪われていたという証左の一つといえる。
[編集] 廃帝としてその後
曹芳が廃位されて洛陽を去る時、それを見送った重臣はわずか10数名であったという。それほど、曹芳は人望が無かったのであろうか。しかし、それが幸いして司馬師や司馬炎らから警戒されることは無かった。
晋の時代に入って、彼は邵陵公に降格された。
274年に43歳で死去し、厲公と諡された。
[編集] 血縁
[編集] 妃后
- 張皇后
[編集] 子
不詳
|
|