有坂成章
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有坂 成章(ありさか なりあきら、嘉永5年2月18日(1852年4月5日)-大正4年(1915年)1月12日)は日本陸軍軍人、男爵。村田経芳と並び、日本が誇る銃砲開発者である。最終階級は陸軍中将。
[編集] 経歴
周防国岩国に生まれた、長州藩士木部左門の二男、幼名を四郎という。文久2年(1862年)、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となった。明治維新後、陸軍に入る。明治24年(1891年)、村田銃の開発で著名な村田経芳少将の退役に伴って陸軍砲兵工廠所属となる。
明治30年(1897年)、三十年式歩兵銃の開発に成功、翌年2月にそれまで使われていた村田連発銃に変わる初の陸軍制式小銃として採用された。
明治31年(1898年)には三十一年式速射砲の開発に成功した。この砲は「有坂砲」と呼ばれ、銃砲開発者としての有坂の名を不動のものとした。日本陸軍はこの有坂砲を用いた三十一年式野砲と三十一年式山砲を制式砲としている。惜しむらくは、まだ駐退機を装備しておらず、発射の反動で砲車が後退してしまう欠点があった。
明治36年(1903年)陸軍技術審査部長となり、日露戦争に臨むこととなる。日露戦争では、これら三十年式歩兵銃と有坂砲によって日本が勝利したといわれるほど、これら銃砲は活躍した。特に三十年式歩兵銃は世界に先駆けて口径6.5mmを実現するなど、ロシア軍の小銃の性能を凌駕していた。この小銃の成果により、有坂の名は世界的に知られ、特にアメリカでは三十年式以降の日本の小銃をすべてArisaka Rifle(アリサカ・ライフル)と呼んだ。
また有坂は、日露戦争中最大の難戦となった旅順攻囲戦の打開策として、時の参謀総長山縣有朋(参謀次長長岡外史との説もある)に、国内の軍港(主に横須賀市周辺)等に要塞砲として据え付けていた二十八サンチ榴弾砲を投入するよう進言し、具体的な移動方法や現地での設置方法を示した。この巨砲は旅順要塞の破壊に大いに貢献し、旅順攻撃の象徴のひとつとなった。さらに一部は奉天まで移動し、奉天会戦においても日本軍の主力砲として十分に威力を発揮した。
こうした銃砲技術面における貢献が高く評価され、明治39年(1906年)4月1日に功二級金鵄勲章を受章、明治40年(1907年)9月21日に男爵叙爵、明治43年(1910年)5月20日に勲一等瑞宝章を受賞するなど、数々の栄誉に輝いた。ただし、本人は叙勲のたびに困惑していたというエピソードを持つ。これは功名を誇ることを嫌った、また銃器開発の事故や戦乱で多くの人命損失を悔やみ、それを苦悩していたためであったからと言われている。
明治44年(1911年)6月、軽い脳溢血に倒れ、待命を仰せ付けられた。大正4年(1915年)1月12日没、享年64。墓地は東京都台東区の谷中霊園にある。