服部正成
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服部 正成(はっとり まさなり(「まさしげ」とも)、天文11年(1542年) - 慶長元年11月4日(1596年12月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の三河国の武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。
松平氏(徳川氏)の譜代家臣で、徳川十六神将のひとりに数えられた歴とした武将であるが、伊賀同心を支配したことから一般には徳川家に仕える忍者の首領とみられることが多い。フィクションの世界で伊賀忍者、あるいは伊賀忍軍の首領として登場する服部半蔵はこうした正成のイメージがモデルになっている。
[編集] 生涯
服部正成は、服部保長の5男として三河国に生まれた。生家の服部家は伊賀国の土豪(いわゆる伊賀者)の有力家系であった服部氏の一門だが、父の保長が故あって三河国に移住し、松平氏に仕えた家である。
正成は父の嫡男として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。正成は「槍半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱と並び称される槍の名人で、その戦いぶりから「鬼半蔵」とあだ名された。なお一説には16歳のとき初陣にて伊賀忍者十数名を率いて三河宇土城(愛知県蒲郡市)に火をかけて賞されたとするが、正成16歳の年にあたる1557年には家康はまだ今川氏の人質として駿府におり、しかも宇土城は今川氏に仕える鵜殿氏の居城であるため信憑性に乏しい。
1579年に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき検使につかわされ介錯を命ぜられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることができず、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と、正成をより一層評価したという。
1582年、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このとき堺に滞在していた家康が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける「伊賀越え」に際し、伊賀出身の正成は商人茶屋四郎次郎とともに地元の土豪と折衝、警護させて一行を安全に通行させたと言われる。
その後も小牧・長久手の戦いなどでも功績をあげ、1590年の家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8000石を領した。
正成は1596年に没し、江戸の西念寺(東京都新宿区)に葬られた。西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗寺院・安養院の後身である。
伊賀同心支配の役は嫡男の服部半蔵正就が継いだ。半蔵父子の組下に付けられた伊賀同心は江戸城西側の門外に屋敷を与えられ警備を担当したことから、その門は半蔵門と呼ばれることになる。