朝倉景嘉
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朝倉 景嘉(あさくら かげよし、生没年不詳)は戦国時代の武将。越前朝倉氏の一族。修理亮と称す。
通称の「修理亮」は敦賀郡司を務めた朝倉景冬が称したことから、景嘉はその血筋の者か、名跡を継いだ者と考えられる。永禄11年(1568年)5月17日、足利義昭が朝倉義景亭へ御成りをした際、伺候した朝倉同名衆19名(朝倉景紀の一族は不参)のうち、景嘉は6番目にランクされる家柄で、義景と系譜的に近い関係にあった(19名のうち、筆頭は朝倉景鏡)。
朝倉宗家滅亡後、残された一族の多くは織田信長に臣従し、その後起こった越前一向一揆に滅ぼされたり(例:朝倉景鏡)、与したりしたが(例:朝倉景健)、景嘉はいずれの道もとらず、越後の上杉謙信を頼り、朝倉家再興を目指した。
越後へ下った景嘉は、謙信の信頼を得、上杉軍上洛の際は越前において一城を預けるという確約をとることに成功した。
しかし、天正6年(1578年)の謙信の死により、上杉軍上洛計画はもろくも崩れ、景嘉の消息も不明となる。