足利義昭
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足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍である(在位:永禄11年(1568年)-元亀4年(1573年))。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文6年11月13日(1537年12月5日) | |||
死没 | 慶長2年8月28日(1597年10月9日) | |||
別名 | 覚慶(法名)、義秋(初名) | |||
諡号 | 昌山、道休 | |||
戒名 | 霊陽院昌山道休 | |||
墓所 | 京都府の等持院 | |||
官位 | 従五位下、左馬頭。従四位下、参議・左近衛中将。 従三位、権大納言、准三后、征夷大将軍 |
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氏族 | 足利氏 | |||
父母 | 父:足利義晴、母:近衛尚通の娘・慶寿院 養父:近衛尚通のち織田信長 |
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兄弟 | 足利義輝、足利義昭、足利周嵩 | |||
妻 | 正室:さこの方 | |||
子 | 義尋、義在、義喬 |
目次 |
[編集] 略歴
父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。同母兄に第13代将軍である足利義輝がいる。
はじめ仏門に入っていたが、義輝が松永久秀らに暗殺されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて京都から脱出し、美濃の織田信長に擁されて上洛し、久秀らを倒して第15代将軍に就任する。しかしやがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、信玄が死ぬと信長の反撃が始まり、信長によって京都から追放され、事実上、室町幕府は滅んだ。
その後は毛利輝元、そして豊臣秀吉らの援助を受けて余生を送った。
[編集] 生涯
[編集] 流浪
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺一乗院)に入り、覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。
永禄8年(1565年)の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆らによって暗殺され、弟で鹿苑院院主であった周嵩も誘殺された。このとき、義昭も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された(久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる)。
しかし幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出する。永禄9年(1566年)2月17日、還俗して義秋と名乗った。義昭のことを記した書物には、別称として武家御所などと呼ばれていたことが記されている。京を追われた折は夜盗に襲われ、貧乏公方とも呼ばれたとされる。4月21日には密かに従五位下、左馬頭に叙位・任官された。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言継の『言継卿記』によれば永禄11年(1568年)2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった言継の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。
なお、京都から脱出した義秋は、はじめ近江の六角義賢・六角義治親子を頼って落ち延びていたが、義治が三好三人衆と密かに内通したため、8月に六角氏の領内から脱出し、妹が正室である縁を頼って若狭の武田義統を頼った。しかし若狭武田氏では家督抗争や重臣の権力争いなどから、上洛できるだけの実力は無く、9月には越前の朝倉義景のもとを頼って落ち延び、将軍家再興を目指して助力を要請した。しかし朝倉義景は実力を持ちながら覇気の乏しい男であったため、遂に上洛は実現しなかった。
なお、朝倉家に滞在している間の永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとして、正式に元服して義昭と名を改めた。このときの加冠役は朝倉義景が務めている(なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる)。
しかし、朝倉家の重臣であった明智光秀の助力により、美濃を平定して勢いに乗る織田信長の援助を得て、永禄11年(1568年)9月に上洛し、10月18日に晴れて室町幕府の第15代として将軍宣下を受け、将軍に就任したのである。このとき、従四位下、参議・左近衛権中将に昇叙・任官されている。
[編集] 織田信長との対立
義昭は将軍職に就けてくれた信長に恩義を感じていたようで、将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名している。これは、信長を父とすると義昭が承認したことと同義であった。また、信長に対して副将軍・管領職の地位を与えようともしているなど、はじめ信長との関係は良好だった。
しかし、後ろ盾である信長には天下布武という野望があった。そのため、将軍権力を抑えるために永禄12年(1569年)1月、『殿中御掟』という9箇条の掟書を突きつけ、これをほとんど強制的に認めさせた。永禄13年(1570年)1月にも殿中御掟追加7箇条を発して義昭に承認させている。
しかし、これに不満を持った義昭は信長を排除しようと企む。そして本願寺顕如や武田信玄、朝倉義景らに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成したのである。この包囲網には後に信長の妹婿である浅井長政や義昭にとっては仇敵である松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わった。これにより信長は一時的に窮地に陥った。しかし元亀4年(1573年)4月に信長にとって最大の強敵・武田信玄が病死してしまったため、信長包囲網は瓦解し、織田軍の反撃が始まった。
にも関わらず、義昭は4月に三好義継、松永久秀らと同盟を結んで信長に対して挙兵する。1度目は正親町天皇の勅命もあったためにさすがの信長も許した。しかし7月における2度目の挙兵は許さず、京の町を焼き払って義昭を捕らえ、河内に追放した。一般にはこれにより室町幕府は滅亡したとされる(ただし将軍職を解任されたわけではなかったので、反信長派諸大名の間では、その後しばらく権威を保っていた。また、京都五山の住持任命権は五山を定めた足利将軍家にあると考えられていたため、その任命のための献金収入もあったと言われている。『公卿補任』では、関白豊臣秀吉に従って参内し、秀吉への忠誠を誓った天正16年1月13日(1588年2月9日)まで将軍として扱っている)。
[編集] 再びの流浪
信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。
しかし天正4年(1576年)、毛利領であった備後にある鞆の浦(足利尊氏再起の地で縁起が良い)に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。しかし天正6年(1578年)に上杉謙信が死去し、天正8年(1580年)に石山本願寺も信長に降伏したため、信長討伐は潰えた。
天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死すると、毛利輝元の力を借りて再び上洛を目論む一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった小早川隆景らが反対したため、毛利輝元は動くことはなく、また義昭はいかなる成り行きで勝家を支持したため秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。
その後、毛利氏が正式に秀吉の配下となった後の天正15年(1587年)、出家して秀吉の側近として仕え、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。晩年には文禄・慶長の役に際し肥前名護屋まで参陣している。慶長2年(1597年)、大坂で死去。享年61。
[編集] 人物・逸話
- 天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭を大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、名族・足利氏としての意地があったのかこれを拒絶した、という逸話が伝わるがこれは後世の作り話とされている。
- 織田信長やその家臣を主人公とした作品では、暗君の公家として描かれる場合が多い。しかし、前代までの将軍たちと異なり、生き残ること自体が困難であった戦国時代を生き抜いて天寿を全うしたこと、また壮大な信長包囲網を作り上げたことなどから、非凡な才能を持った将軍であったとも思われる。政権の最後の責任者は古今東西問わず評価が低くなりがちであるし、さらに信長、秀吉という天才たちの引き立て役とならざるを得ない気の毒な面もあると言えよう。
[編集] 子孫
義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となったあと出家して大乗院門跡を継ぎ、足利義在は薩摩の島津氏を頼り永山姓を名乗った。また、足利義喬は会津藩を頼って坂本姓を名乗った。
[編集] 官歴
- 永禄9年(1566年)
- 従五位下に叙し、左馬頭に任官。叙位任官時期については疑問視もある
- 永禄11年(1568年)
- 永禄12年(1569年)
- 天正2年(1574年)
- 京都より追放される
- 天正16年(1588年)
- 慶長2年(1597年)
- 8月28日:卒去。法号は霊陽院昌山道休
[編集] 伝記
- 奥野高広『足利義昭』(吉川弘文館人物叢書、1996年新装版) ISBN 4642051821
- 桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』(講談社、1985年) ISBN 4062018500
[編集] 足利義昭を題材とした作品
- 岡本好古『御所車 最後の将軍・足利義昭』(文藝春秋、1993年) ISBN 4163140700
- 水上勉『足利義昭 流れ公方記』(学陽書房人物文庫、1998年) ISBN 4313750339
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