朝倉村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝倉村
|
小さい街であるが、今治市等から住宅を求めて転居する人があり、愛媛県内では数少ない人口が横ばいを保っていた村であった。ただし、村やデベロッパーが大規模な住宅団地を開発したわけではない。とても暮らしやすい地域とされており、水と緑と古墳に代表される文化を基軸としたまちづくりを進めてきた。「村」とはいえ人口5000人と、愛媛県内の他の「町」と比べても遜色ない存在であった。
目次 |
[編集] 位置・地形
朝倉村は、旧:今治市に接し、今治平野の内陸部に位置している。
北は開け、今治市と平地で接しているが、他の三方は山地で囲まれている。山地は森林でおおわれている。東予市(現:西条市)に源流を発する頓田川の上流域にあたり、頓田川は村を貫き、今治市東部を経て、燧灘(瀬戸内海)に注いでいる。
[編集] 村名の由来
「和名抄」に朝倉の名が見えるように、この地は古くから「朝倉」と呼ばれていた。「朝倉」の由来については諸説ある。
- 周囲を山に囲まれ朝暗いから「あさくら」となった
- 斉明天皇が、窮地に立っていた百済への援軍を派遣する際に、この地に約3カ月滞在され、その後、九州の朝倉に兵を進められた。これにちなんで朝倉とした。
- 斉明天皇がご滞在の時、木で御殿を建てたが、建築様式が校倉づくりであったことから、「あぜくら」が「あさくら」に転化したもの。
- なお、斉明という地名も残っており、何らかの形で斉明天皇にちなむものとみるのが適当と言われている。
[編集] 歴史
[編集] 中世以前
- 斉明天皇が立寄られる(上記、村名の由来参照)
- 古くから朝倉郷とよばれ、ほぼ朝倉村の区域に相当する。遺構が多数あり、国府に近いこともあって、開けていたものと推察される。
[編集] 近世
- 江戸時代初期には、朝倉上、朝倉中、朝倉下、古谷(こや)の4か村があった。
- 江戸時代後期には、朝倉郷7か村に分かれていた。そのうち、古谷、山口、朝倉上、朝倉南、朝倉北は今治藩に、朝倉上之村は松山藩に、朝倉下は幕府領であるなど、支配関係は入り組んでいた。また、境界も複雑に入り組んでいた。
[編集] 近代
- 1879年(明治12年)、朝倉南北村が成立。
- 1885年(明治18年)、南北に分離。
- 1889年(明治22年)、町村制施行にともない、朝倉上、朝倉上之村の2村で上朝倉村となる。残りの村で下朝倉村となる。
- 1956年(昭和31年)、両村の合併により朝倉村となる。
- 2005年(平成17年)、今治市・越智郡11か町村の合併により自治体としての歴史を閉じる。
[編集] 行政
- 村長 最後の村長 清水俊充(しみず としみつ)
- 平成の市町村合併の経緯
- 朝倉村としては、越智郡陸地部とともに地域の中心都市である今治市と合併することについて、村内でこれといった異論は出なかった。
- 一部、旧:東予市で朝倉村に接している黒谷では分離のうえ今治のグループに加わろうという動きがあった。同集落の住民は東予市街地へ出る際、朝倉村を通過する必要があったからためであるが、集落の総意とならず実現もしなかった。
[編集] 教育
[編集] 高等学校
- 村内に高等学校はない。
[編集] 中学校
- 朝倉中学校
[編集] 小学校
- 上朝小学校
- 下朝小学校
[編集] 交通
[編集] 鉄道
- 朝倉村内に鉄道路線はない。
[編集] 道路
[編集] 高速道路
- 朝倉村内に高速道路は通っていない。
[編集] 一般国道
- 朝倉村内に国道は通っていない。
[編集] 都道府県道
- 朝倉村内に主要地方道は通っていない。
- 愛媛県道154号東予玉川線
- 愛媛県道155号今治丹原線
- 愛媛県道162号朝倉伊予桜井停車場線