木村荘平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 荘平(きむら しょうへい 1840年 - 1906年4月27日)は山城国(現在の京都府)出身の実業家、政治家。いろは合名会社社長、東京家畜市場会社(屠場)理事、東京諸畜売肉商(肉卸問屋)組合頭取、東京博善株式会社(火葬場)社長、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(エビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問、芝区議会議員、東京市議会議員、東京府議会議員。当時日本最大の牛鍋チェーン店"いろは"を経営し、いろは大王と謳われた。
山城国宇治の上林家に生まれる。幼名鹿蔵。生家は代々の茶師で、徳川家康以来、公方様御用と禁裡御用を務めた。父が宇治の木村家に夫婦養子に入った後、理由あって上林家に戻ったが、そのとき鹿蔵のみ木村家に残されたという。
幼時より悪戯と喧嘩を好み、7歳で寺子屋に預けられたが学業は不振で、3年間の勉学の後も自らの姓名しか書けなかったと伝えられる。1855年に力士を志して家出し、大坂の小野川秀五郎に入門。程なく生家に連れ戻されたが、放蕩が祟って1968年に勘当を受ける。
家を出されてからは伏見で青物屋を開いて成功。1861年、青物問屋23軒の組合を作り、取締役となる。1868年の鳥羽伏見の戦いで薩摩藩御用をつとめたが、売掛金を踏み倒されて倒産。1870年、神戸市栄町に資本金30万円で製茶貿易商店を設立するも、事業不振により倒産。何度か事業の失敗を繰り返した後、1878年、鳥羽伏見以来の縁により、薩摩藩出身の川路利良の招きを受けて上京し、明治政府から官営屠場の払い下げを受けて成功。1878年から牛鍋チェーン店"いろは"を経営。東京市内20箇所にのぼる支店にそれぞれ愛人を配置して各店の経営にあたらせた。傍ら、東京府下15区6郡の肉問屋を糾合して東京諸畜売肉商組合を結成すると共に、1887年には東京家畜市場会社の理事に就任。
同じく1887年、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となる。同年、日本麦酒醸造会社を設立し、社長に就任。
政治的には星亨の派閥に属し、1896年、東京市会議員に当選。東京府会議員から衆議院進出を計画していた矢先、顎癌で死去。享年67。
長女栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、四男木村荘太も作家、八男木村荘八は画家、十男木村荘十は直木賞作家、十二男木村荘十二は映画監督となった。