本多政重
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本多 政重(ほんだ まさしげ、1580年(天正8年) - 1647年7月5日(正保4年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は本多正信(政重は次男)。本多正純の弟。榎本藩の第2代藩主となった本多政遂は実子である。
[編集] 経歴
1591年(天正19年)、徳川氏の家臣・倉橋長右衛門の養子となって徳川家康に仕えた。しかし1597年(慶長2年)徳川秀忠の乳母の子を斬り殺した経緯から徳川氏から逐電して大谷吉継の家臣となった。その後、宇喜多秀家の家臣となり、2万石を与えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦したが、敗れて近江国堅田へ隠棲した。正信の子であったため、罪は問われなかったのである。
その後、福島正則に仕えたが、間もなくそこから去って前田利長に3万石で召し抱えられた。しかしそこでも長続きせず、間もなく上杉景勝の家臣として仕えるようになる。そしてそこで、景勝の重臣・直江兼続の婿養子となって重用された(兼続には男子がおり、上杉氏安泰を図っての策略と言われている)。間もなく兼続の娘が死んだため大国実頼(兼続の実弟)の娘を兼続の養女として娶った。1611年(慶長16年)上杉氏を去り1612年(慶長17年)に前田家に帰参した。
その後は前田氏の忠実な家臣として仕えた。家康と正信、兄の正純が前田氏に反逆の兆しありと疑いをかけてきたときも、江戸に赴いて懸命に釈明している。この功績を賞されて、2万石を加増された。1614年(慶長19年)の利長死後はその弟前田利常に仕え、家老として若い利常の補佐に当たった。同年冬からの大坂の役では、真田信繁(幸村)に真田丸に誘い込まれた末に敗れて幸村に名を成させしめた。
その後前田光高、前田綱紀に至るまで家老として補佐に当たった。1647年(正保4年)3月、病を理由に隠居し、同年6月に死去した。享年68。
父や兄は知略に優れた人物であったが、政重は武勇に優れ、豪胆だったことから各大名から招かれたのである。ただし一説には正信の意を受けて、諸大名の間諜を務めていたとも言われている。