直江兼続
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直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代前期の武将。上杉氏の家老。
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時代 | 戦国時代・安土桃山時代・江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄3年(1560年) | |||
死没 | 元和5年12月19日(1620年1月23日) | |||
別名 | 与六(幼名)。重光(別名)。直江山城守(通称) | |||
戒名 | 達三全智居士。 英貔院殿達三全智居 |
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官位 | 従五位下、山城守。贈従四位 | |||
氏族 | 樋口氏→直江氏 | |||
父母 | 父:樋口兼豊、母:泉氏 | |||
兄弟 | 弟:大国実頼 | |||
妻 | 正室:直江景綱の娘・お船の方 | |||
子 | 養子:本多政重 |
- 父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曽義仲の重臣樋口兼光の末裔という)、母は信州泉氏の娘。
- 仙桃院(謙信の実姉で上杉景勝の母)の推薦で、幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子が窺える良質な史料はなく、父・兼豊の身分についても見解が分かれている。「藩翰譜」によれば兼豊は薪炭吏だったという。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 謙信時代
通説では、兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として生まれ、永禄7年(1564年)に長尾政景が死去すると、謙信の養子となった景勝に従って春日山城に入り、そのまま景勝の近侍として仕えたと言われている。
[編集] 直江家相続
天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。8月15日には景勝印判状の奏者をつとめている。天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると、景勝の命で直江景綱の娘・お船の方の婿として結婚し、跡取りのない直江家を継いだ。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。
[編集] 豊臣政権時代
天正11年(1583年)、従五位下、山城守に叙任する。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。
天正15年(1587年)、新発田重家討伐で武功を挙げ、天正16年(1588年)には豊臣秀吉から豊臣姓を賜った。天正17年(1589年)の佐渡征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても、景勝と共に参陣して武功を挙げた。
慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどして、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。
このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった直江状の筆者として有名であるが、文面自体は後世の偽作であるともいわれている(家康家臣の日記等から、上杉側から何らかの返書があり、これを見て家康が激怒したこと自体は確かなようである)。
関ヶ原の戦いでは、東軍に与した最上義光の領地である山形に3万人の精鋭を率いて侵攻し、義光の家臣・江口五兵衛の守る畑谷城などを激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく義光の家臣で、志村光安が守る長谷堂城と里見民部が守る上山城を攻めるが、守備側の健闘によって上杉方の武将・上泉泰綱が戦死するなど長谷堂城の攻略に手間取った。
その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが、水原親憲、前田利益(慶次)ら上杉勢の諸将の奮戦もあって被害を最小限にとどめることに成功した。この撤退戦で兼続は敵である義光、家康にも称賛されたという。
[編集] 江戸時代
慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。このため、家康から罪を許され、上杉景勝は出羽米沢30万石の減移封だけで、上杉氏の存続を許された。
その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年(1608年)1月4日に重光に改名する。そして米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築いた。その一方で上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期がある。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても、徳川方として参戦し、武功を挙げた。
元和5年(1619年)12月19日、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。
[編集] 墓所
初め米沢市の徳昌寺に埋葬。その後、徳昌寺と米沢市の林泉寺の間に争いが起こり、敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。
昭和13年(1938年)、米沢市鎮座の松岬神社に配祀。以後、終戦まで米沢市祭として直江祭を毎年4月30日に執行する。
[編集] 死後
兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶する事になったが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」、「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に、意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。
その後、景勝とお船の方が亡くなった事で後ろ盾を無くした兼続配下の与板衆が著しく凋落し始めたことや(与板衆は上杉家中で圧倒的な勢力を持っていたため反感を持つ反与板衆勢力も多かったといわれている)、景勝と対立して出奔した上条政繁の息子である畠山義真などの反景勝、兼続の人物評が上杉家の軍記作成や歴史編纂に影響を持つようになると、兼続を「東照宮(家康)様に逆らって上杉家を危機に陥れた不忠の奸臣」とする見方が現れて、米沢藩の記録にまで反映される事となった。だが、上杉鷹山が藩主になると、こうした一方的な記載を止めさせたと言われている。
[編集] 人物・逸話
- 主君である上杉景勝を上杉謙信死後から補佐し、豊臣秀吉からの引き抜き行為も幾度も断り、さらに関ヶ原の戦いでは敗戦にはなったものの少数の軍勢で伏兵を用いて何度も敵軍の侵攻を食い止め自軍の被害を最小限に済ませるなど、忠義の臣、智勇兼備の名将と言われている。
- 妻お船の方との夫婦仲はとてもよく兼続は生涯側室を1人ももたなかった。
- 関ヶ原の戦いで中央の戦況が早々に東軍勝利に終わってしまったという事情があるとはいえ、城攻めで少数の最上勢に苦戦するなど、軍事能力に関しては疑問が残るところがある。
- 南化和尚、西笑承兌などと親交があり文化人としても知られており蔵書家で有名であった。兼続蔵書である宋版『史記』『漢書』『後漢書』は南化和尚から贈られた物でありいずれも国宝に指定されている。また日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版や米沢藩の学問所である禅林寺を創立している。
- 「愛」という字を前立にあしらった兜をかぶっていた。「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」からの由来といわれている。
- あるとき、兼続の家臣(三宝寺勝蔵)が下人(五助)を無礼討ちした。すると、その五助の遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか?」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒して、その横に立て札を立て、そこに、「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。
- 景勝の代理として大坂城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け、撥ねるようにして表裏を見たという。政宗は、直江が陪臣であるために遠慮していると思い「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、直江は「冗談召さるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」と、政宗の膝元へ投げて返したという。
- 後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしなかった。政宗が「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる(対戦する)間柄だったゆえ(負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」と慇懃に答えたという。
[編集] 関連書籍
- 小説 直江兼続—北の王国 (童門冬二著)
- 小説 密謀(藤沢周平著)
- 小説 直江兼続(江宮隆之)著
- 渡辺三省「直江兼続とその時代」野島出版 1980年発行。ISBN 4822100448
- 花ケ前盛明「直江兼続のすべて」新人物往来社 1993年発行。ISBN 4404020090