村上頼勝
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村上 頼勝(むらかみ よりかつ、? - 慶長9年5月28日(1604年6月25日))は織豊時代の戦国武将。通称次郎右衛門尉、周防守。諱は義明として流布しているが、正しくは頼勝。おそらく、信濃村上氏との繋がりを意識して造作されたものであろう。
はじめ丹羽長秀の家臣だったが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、丹羽氏のもとから去って豊臣秀吉の家臣となり、加賀国能美郡に6万5000石を与えられた。その後、秀吉の命で堀秀政・堀秀治の与力大名となり、慶長3年(1598年)には秀吉の命を受けて、越後国本庄(のち村上と改称)9万石に加増移封された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与して越後に在国し、国内で起こった上杉氏(西軍)の旧臣による一揆鎮定に務めた。その戦功により戦後、徳川家康から所領を安堵された。男子がなく、戸田氏繁の子忠勝を養子にした。出自については、前述の信濃村上氏の他、瀬戸内水軍の村上氏の一族ともいわれる(厳密には両村上氏とも同族)が、根拠に乏しく、現時点では不明とせざるをえない。
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