村田珠光
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村田珠光(むらたじゅこう、応永30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日))は、室町時代中期の茶人。なお名前は僧侶として苗字を取らなければならないが、旧来「村田珠光」で流布している。また近年では読みも「しゅこう」と濁らせないとする説が有力である。
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[編集] 生涯
経歴は不詳であるが後世の史料によれば、父は村田杢市検校で、幼名を茂吉と称したという。奈良の浄土宗寺院称名寺に入れられ、僧となった。戦後の研究では還俗して商人になったとされてきたが、珠光64歳の時期に当たる『山科家礼記』に「珠光坊」という記述が発見されたことから、現在では一生僧侶であったと改められている。
また30歳の頃臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅したという説がとられて来たが、これも確実な史料があるわけではなく、研究者の中には疑問視する声もある。しかし一休開基の真珠庵の過去帳文亀二年五月一五日条に「珠光庵主」の名が見え、一休十三回忌に一貫文を出しているから(熊倉功夫「茶の湯の歴史」朝日選書)大徳寺に深い関わりを持っていたことは確かである。なお一休に参禅していたとしても、これは諸宗兼学の修行であって、珠光が臨済宗へと宗派を変えたとは言い切れない(但し確かに息子の宗珠は臨済宗の僧侶となっている)。
さらに『山上宗二記』(二月本)中の「珠光一紙目録」により、室町幕府8代将軍足利義政に茶道指南として仕えたともされたが、これは同書中の能阿弥に関する記述がその生没年と合わないことから、現在の茶道史研究では基本的に否定されている。
[編集] 珠光の茶の湯
このように史料は乏しいものの、弟子の古市澄胤に与えたという「古市播磨法師 珠光」と題された軸装の文書(通称「心の師の文」)は当時の貴重な文献として評価されている。同資料に登場する「ひえかるる」という表現は連歌で使われている用語であり、珠光の茶の湯が連歌の影響を大きく受けていたことを窺わせる。珠光は他の芸能者達との交流もあり、能楽者である金春禅鳳が記した『禅鳳雑談』に有名な
- 珠光の物語とて 月も雲間のなきは嫌にて候 これ面白く候
という一節が遺されている。ここに見られる完全性を拒否する姿勢こそが、「わび茶」へと繋がる新しい喫茶文化の端緒を開くものであった。
室町時代の将軍家における唐物を賞玩する喫茶文化では、天目や龍泉窯の青磁茶碗が好まれていたが、珠光は粗末な《珠光茶碗》を賞美し、こうした道具を用いる茶の湯を確立したのである。この珠光の茶の湯は、その子宗珠を初めとする弟子達によってひろめられ、このことから後に千利休から茶の湯の開山として評価されることとなる。
[編集] 珠光が好んだ茶道具
珠光が好んだという伝来を持つ道具は多く、総称して「珠光名物」と呼ばれている。その主な物は以下の通り。
- 《珠光茶碗》
- 《投頭巾茶入》
- 《珠光文琳》
- 《珠光香炉》
- 《圜悟墨蹟》
- 徐熙の《鷺の絵》
これらの道具を所持していたという事実が、珠光が還俗して商人になったという論の大きな根拠であった(このために「村田珠光」の名前で流布したのでもある)。しかし近年発見された天文年間の名物記『清玩名物記』では、掲載される珠光旧蔵の道具は《珠光茶碗》のみであった。天正16年の『山上宗二記』に下ると、多くの珠光旧蔵の道具が登場しており、この間に伝来の捏造が行われた可能性を検討する必要が生じた。また上記の『山科家礼記』の発見による、珠光が一生涯僧侶であったという説の信憑性を高める結果ともなっている。
またこの説により珠光の唐物名物所持の信憑性が薄れたため、「心の師の文」にある
- 和漢之さかひをまぎらかす
という記述の読解も再考の必要が生まれている。
なお珠光が棗を羽田五郎に作らせたという説もあるが、これも棗の茶会記への登場が武野紹鴎没後の永禄年間と遅く、しかも他の木製茶器よりも遅いため、やはり疑問視されている。