連歌
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連歌(れんが)は日本の伝統的詩形のひとつで、複数の人間で和歌の上句と下句を繋げていくものである。句の繋げ方には規則があり、また句数によって歌仙、百吟などいくつもの形式がある。
連歌は「筑波(つくば)の道」とも称されるが、これは連歌の起源を『古事記』にある、筑波山を詠みこんだ、倭建命(やまとたけるのみこと)と御火焼翁(みひたきのおきな)との唱和問答歌とすることによる。
そのもっとも早い形は八代集にみられる短連歌(三十一文字の上の句と下の句を別々の作者が詠む)である。
中世の鎌倉時代から100句を基準とする長連歌の形式が整えられ、南北朝時代を経て室町時代が最盛期とされる。連歌は能楽と並び室町文化を代表する遊戯の1つとされる。室町時代には二条良基、宗祇、心敬などの連歌師が出現し、貴族の邸宅や有力寺社などで連歌会が催された。応仁の乱で京都の文化が地方伝播すると、連歌も畿内だけでなく、日本各地で行われるようになる。
集団制作による詩形である連歌は講と結びついて発展した。とくに鎌倉時代後期から天神信仰と結びついた。連歌を目的とする天神講を特に天神講連歌会と呼ぶ。講を結び、図像をかかげて天神供養を行い、もって連歌を手向けとするものである。こうした連歌会は大和国を中心に発達し、室町時代を通じて畿内から各地へ伝播していった。天神講連歌会記録としては大和国の室生村の染田天神連歌文書などが伝来する。
戦国時代から近世にかけても連歌は必須の教養とされた。戦国時代には里村紹巴が出て、連歌書を多く著すとともに、諸大名と交際し、教養としての連歌の地位を新興の大名のうちにも確立させた。里村家は後に徳川宗家に仕え、将軍の指南役として連歌界を指導した。一方戦国末期には、荒木田守武、山崎宗鑑などにより俳諧連歌がはじまる。これは伝統的な宮廷文化の枠組みの中にあった連歌の題材を、広く世相に求め、伝統的な詩形や題材と卑近なものの組みあわせのうちにおかしみを見出そうとする試みである。『犬筑波集』などがある。江戸時代には俳諧連歌が隆盛となり、上方から井原西鶴、松尾芭蕉らを輩出したが、連歌自体は廃れた。俳諧連歌もまた江戸後期に至り月並流といわれる形式を重視したものに変化し、明治になり正岡子規の俳諧から俳句への革新によっていったんは廃れた。
第二次世界大戦ののちは、大岡信など現代詩詩人のなかから連歌の集団制作性に注目し、伝統的な枠にあまり囚われない集団詩としての連歌を実践する試みがある一方、伝統詩形としての連歌に再び回帰する動きもある。前者は Renga として日本語以外の言語でも実践を行っている。後者は深川芭蕉庵の連歌会などを催し、伝統的な宗匠 と連衆による連歌句作を行っている。また両者の傾向とも、インターネットによる実践を行う試みが各所で行われている。ただし、このような復興の動きがある反面、連歌を行う人口や結社の数は、俳句に比べれば僅少といえる状態にとどまっている。
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