東文彦
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東 文彦(あずま ふみひこ、大正9年(1920年)8月23日 - 昭和18年(1943年)10月8日)は日本の作家。本名の東徤(あずま・たかし=行人偏に建)は祖父の東武の命名による。文彦という筆名は、父の東季彦が息子の名前にと一時考えていたもの。
[編集] 経歴
父東季彦は奈良県十津川村出身の法学者で、九州帝国大学法文学部教授や日本大学学長などを歴任。母、菊枝は軍人石光眞清の次女。
幼時を父の赴任先の福岡で過ごし、小学校2年から東京に移住。学習院中等科を優等で卒業、恩賜のニッケル時計を拝受。学習院高等科進学後、胸を患って絶対安静の療養生活を余儀なくされ、鎌倉や熱海や軽井沢などに転地。傍ら小説を執筆し、1939年、坊城俊民との共著の形で、作品集『幼い詩人・夜宴』を刊行。1940年から室生犀星に師事。病床の文彦は直接犀星に会うことはできず、文彦が書いた原稿を母菊枝が清書し、それを持参した母が田園調布の家から人力車で馬込の犀星宅に赴いて、添削指導を受けた。
1940年暮、輔仁会雑誌に載った三島由紀夫の短篇「彩絵硝子」(だみえガラス)について一文を草したことから、三島の無二の友人となった。三島の筆名「由紀夫」は、文彦の作品「幼い詩人」の登場人物悠紀子から取ったという説もある(東季彦『マンモスの牙』(図書出版社、1975年)。一方で坊城からは次第に距離を置くようになり、1942年には坊城を排除する形で、徳川義恭および三島と共に同人誌『赤絵』を創刊。1943年に『赤絵』第2号を発行する。
1943年10月8日、結核は回復に向かっていたものの、急性胃拡張と腸閉塞とにより23歳で夭折。
師室生犀星はその死を惜しみ、「白菊や誰がくちびるになぞらへし」の句を捧げた。犀星が直接葬儀に列席するのはごく親しい友人に限られていたが、一度も対面したことのなかったこの弟子の葬儀に参列するため、犀星自身が馬込から田園調布の東家に赴いた。後年の『東文彦作品集』発行も、犀星が父季彦に助言したことがきっかけとなっている。林富士馬や中河与一からも才能を惜しまれた。歿後、1944年に刊行された遺稿集『浅間』には、三島が「東徤兄を哭す」と題する追悼文を寄せている。
書簡を通じて堀辰雄からの指導も受けており、堀から受けた影響が大きい。
生涯に20作の短篇小説を遺した。結核の療養生活を描いた代表作「方舟の日記」は、三島から彗星に喩えられて賞賛された。
晩年の三島が上梓に向けて力を注いでいた『東文彦作品集』は、三島の死の四ヵ月後、1971年に講談社から日の目を見た。この作品集には、三島が1970年10月25日付で長文の序を寄せている。
三島『豊饒の海』第一巻『春の雪』では、主人公松枝清顕が「夢日記」を書いている。そのモデルとなったのが、昭和12年3月学習院文芸部『輔仁会雑誌』に掲載された東文彦の「夢」という作文ではないかと言われている。さらに、『豊饒の海』第二巻『奔馬』で重要なモチーフとなる「神風連の乱」には東文彦の外祖父石光眞清が関係しており、『豊饒の海』の構想には深く東文彦が結びついていると考えられる。