東条冬貞
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東条 冬貞(とうじょう ふゆさだ、生年不詳 - 元禄17年1月24日(1704年2月28日))は江戸時代前期の旗本(ただし部屋住み)。忠臣蔵の敵役として有名な吉良上野介義央の弟の1人。通称は隼人(はやと)。
高家旗本吉良若狭守義冬(4200石)の四男として誕生。母は旗本酒井紀伊守忠吉(7000石)の娘。生年は不詳だが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、冬貞が生まれたのはそれ以降。吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄の義叔は分家の旗本として東条家を興した。しかし東条義叔は男子に恵まれず、弟の冬貞を養子に迎え入れることとなった。こうして部屋住みの旗本となった冬貞は、元禄5年(1692年)11月1日にはじめて将軍徳川綱吉に拝謁。元禄6年(1693年)からは小姓組番士となったが、元禄17年(1704年)1月24日に養父東条義叔に先立って家督前に死去した。結局、東条家の家督は旗本拓殖三右衛門影正の子である東条義武(母が吉良氏一族の荒川氏)が継いだ。冬貞は吉良家菩提寺の万昌院に葬られた。法名は宗夢。