東条義叔
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東条 義叔(とうじょう よしさだ、生年不詳 - 宝永6年1月1日(1709年2月10日))は江戸幕府の旗本。忠臣蔵の敵役で有名な吉良上野介義央の弟にあたる。通称は民部(みんぶ)。官位は従五位下、因幡守(いなばのかみ)・伊賀守(いがのかみ)・能登守(のとのかみ)。
高家旗本の吉良若狭守義冬(4200石)の次男として誕生。母は7000石の旗本酒井忠吉(酒井忠勝の実弟)の娘。生年は不詳だが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義叔が生まれたのはそれ以降。吉良家の家督は義央が継ぐため、弟の義叔は別家“東条家”をおこした。吉良家は戦国時代には西条吉良家と東条吉良家に分かれていたが、おそらくその東条を家名にとったものと思われる。東条家は高家吉良家の分家筋とされたが、高家となることは許されず、一般の旗本家として扱われた。寛文元年(1661年)12月24日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁して、以降中奥小姓として出仕するようになった。寛文2年(1662年)12月22日には切米500俵を支給された。寛文5年(1665年)12月27日に従五位下因幡守に叙任する。将軍が徳川綱吉にかわったのちも長く小姓をつとめていたが、元禄7年(1694年)8月23日に勤務怠慢とされて小普請(無役の旗本)にされた。またこのとき江戸城への出仕も止められたが、12月11日に赦免された。元禄10年(1697年)7月26日、切米を所領に改められ、武蔵国児玉郡と賀美郡に500石を領した。宝永6年(1709年)1月1日に死去。兄吉良上野介義央と同じ牛込の万昌院に葬られた。法名は道樹。家督は拓殖家からの養子である東条義武が継いだ。
なお兄の本家吉良家は元禄赤穂事件によりお家断絶してしまったが、享保17年(1732年)、東条義武の養子である東条義孚(よしざね)の代の吉良姓に戻ることを許された(ただし高家の格式は認められなかった)。
またそれに先立つ宝永7年(1710年)には関東吉良氏の末裔である高家の蒔田家も吉良姓に戻りたいと希望して許されている。こちらが「高家吉良家」として残ることになる。
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