松山吉之
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松山 吉之(まつやま よしゆき、1966年7月31日 - )は元サッカー日本代表選手、元サッカー指導者。弟の松山博明もサッカー選手・サッカー指導者。
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[編集] 経歴
学生時代、古河電工、ガンバ大阪在籍時にはFW、攻撃的MF、サイドハーフでその攻撃能力を発揮し、日本代表にも1987年から1989年まで名を連ね国際Aマッチ通算9試合に出場し4得点を挙げている。京都パープルサンガ在籍時にはボランチを務めるなどプレーの幅を広げるも、1997年シーズンを以って引退。
ガンバ大阪には家庭の事情で実家に帰ってきていることを知った高校、大学時代の大先輩の釜本邦茂監督(当時)に「暇なときにボールを蹴りに来い!」と誘われ入団した。 ジークフリート・ヘルト監督時代には3-5-2のサイドハーフに起用され、それまでしたことのなかったスローインに挑戦した。
名古屋グランパスエイトコーチ時代には、ファン感謝デーのキックスピードコンテストに若手選手とともに登場し、見事優勝してしまった逸話もある。 また、古巣で燻っている選手をほうっておけず自らの推薦で獲得することもある。平岡直起(ガンバ大阪-名古屋グランパス-清水エスパルス-FC岐阜)はその例である。
指導者としては京都パープルサンガでコーチとしてスタートし、名古屋グランパスエイトのコーチを経て、2004年からガンバ大阪に在籍。2005年のJリーグ初優勝を支えた。 また、若手選手の育成手腕にも定評があり、監督とのパイプを務める兄貴分としても信頼も厚い。2006年を最後にコーチ業を引退。
京都市右京区で、実家の料亭「松山閣 松山」を継ぎ、現在は5代目若旦那。 2007年1月26日放送の、MBS「ちちんぷいぷい」のコーナーで紹介されました。
[編集] 選手経歴
- 京都府立山城高等学校(1982~1985)
- 早稲田大学ア式蹴球部(1985~1989)
- 古河電工(1989~1991)
- ガンバ大阪(1992~1996)
- 京都パープルサンガ(1997)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 9試合 4得点(1987-1989)
- 国際Cマッチ 20試合 1得点(1987-1989)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1987年 | 8 | 4 | 0 | 0 | 12 | 1 |
1988年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1989年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 |
通算 | 9 | 4 | 0 | 0 | 20 | 1 |
- Aマッチデビュー:1987年4月12日対シンガポール戦(国立)ソウル五輪予選
- Aマッチ初得点:1987年4月12日対シンガポール戦(国立)ソウル五輪予選
- Cマッチデビュー:1987年1月8日対上海戦(上海)木村和司との交代出場
- Cマッチ初得点:1987年1月10日対湖南省戦(上海)
[編集] 指導者経歴
- 京都パープルサンガ:コーチ
- 名古屋グランパスエイト:コーチ
- ガンバ大阪:コーチ 2004-2006
[編集] 通算成績
- 古河電工:JSL19試合5得点
- ガンバ大阪:Jリーグ101試合10得点、Jリーグカップ21試合5得点、天皇杯19試合5得点
- 京都パープルサンガ:Jリーグ19試合、Jリーグカップ5試合2得点、天皇杯2試合
[編集] 外部リンク
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