松平康親
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松平康親(まつだいらやすちか、大永元年(1521年) - 天正11年(1583年))は戦国時代の武将。初め松井忠次と称す。通称は左近将監・左近尉・左近、後に松平周防守康親と改称(松井松平家初祖)。松井忠直の子。母は某氏。
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[編集] 出自
三河国幡豆郡吉良庄相場小山田村生まれ。この地を本貫地とする三河松井氏の惣領。父忠直は岡崎松平氏の松平清康・広忠に歴仕して松平氏の岡崎譜代の家臣とされるが、初期にはこの小山田村を含む吉良庄の領主であった東条吉良氏の属臣(家来ではない)であったと思われ、この松井氏が付属する背景には駿河今川氏の影響力が有ったと考えられ、その出自は今川家臣で二俣城主であった遠州松井氏と思われる。
忠次も当初には今川氏の家臣として資料上現れる(天文20年(1551年)12月11日付松平忠茂宛今川義元判物)。この文書で忠次は松井左近尉と記され、今川義元(治部大輔)より山内助左衛門尉とともに松平甚太郎(忠茂)に付属すべき内容が示される。この時より、忠次はいわゆる東条松平氏に寄騎として付属したのである。なお、これは甚太郎の兄で織田氏についた松平甚二郎を義元が排斥した事後処理として行われた。
[編集] 今川氏の命により東条松平氏の名代となる
忠次は主君松平忠茂に妹を嫁がせて忠茂の外戚となり、以後はこの松平氏の軍事・家政に絶大な影響力を持つことになる。
弘治年間には、東三河の奥平氏・菅沼氏が今川氏を離反したため、今川方に留まる三河の国衆には鎮圧の下命が出される。弘治2年(1556年)2月、松平忠茂は松井衆等手勢を率いて出兵、同国額田郡日近城の日近久兵衛尉を優位に攻めながら不慮の戦死を遂げる。おかげで東条松平勢は攻城半ばにして、撤退を余儀なくされた(日近合戦)。この時、忠次が事態を収拾し東条勢の殿軍を務めたために、籠城軍・日近勢は追撃を試みたものの戦果を挙げるには至らなかった。
この戦役の後、今川義元は忠茂の嫡男亀千代(その時1歳)の遺領相続(同年2月27日)及び松井忠次が亀千代の名代となること(同年9月2日)をそれぞれ文書で指示。以後、忠次は亀千代の名代として今川方の軍事行動に参陣した。
[編集] 徳川家康に味方し、主君松平亀千代(家忠)を東条城の主とする
今川義元戦死の翌年、永禄4年(1561年)今川氏より自立した徳川家康に亀千代と共に帰属。同年月東条城の吉良義昭を攻めて降伏させた。永禄6年(1563年)吉良義昭は三河一向一揆に主将として担がれ東条城に籠城、忠次は再度これを攻めて翌年春に降伏させた。義昭は追放され、かわってその功績により亀千代が同城々主になる(東条松平家の事実上の成立)。忠次も五百貫文加増で三千五百貫文を知行し、松平姓を許された(松井松平家の成立)。
[編集] 徳川氏の東海地方平定戦に活躍
松平亀千代は松平甚太郎家忠と改め、西三河国衆として徳川軍の主要構成部隊のひとつになり姉川の戦いや近江平定戦に参加。徳川氏は旧今川氏領をめぐり武田氏と対立、元亀3年(1572年)には三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し、松井忠次一族も家康を守って多数戦死した。その後、信玄病死後その子勝頼とも東条の兵を率いて戦いを継続、天正3年(1575年)5月鳶巣城攻略、8月遠州諏訪原城(牧野城)守備、忠次は功績により家康の偏諱と周防守の称号を許されて、以後は松平周防守康親と称す。
[編集] 家忠死後、養子忠吉の名代として対北条戦に臨む
天正9年(1581年)、松平家忠病没。徳川家康は家忠の後継に自分の4男福松(松平忠吉)を入れ東条松平氏を存続の一方、康親に引き続き名代・後見をさせる。翌10年より豆州沼津の三枚橋城に在城し、小田原北条氏と対陣。以後康親・康重2代にわたり約8年間、ここを拠点に北条氏と戦う。康親は天正11年(1583年)6月対陣中の三枚橋城に死す。享年63。法名は空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士。三州幡豆郡斑馬(東条)の法応寺に葬る。
[編集] 家族
正室は江原丹波守政秀の女、継室は松平次郎右衛門の女。
2男1女あり。嫡子・康次(松平康重、母は次郎右衛門女)、次男・忠喬(松井金七郎、母は康次に同じ)、長女・唐梅院(某・井伊直政の室となる、母は江原政秀女)
他に5人の養女あり(いずれも石川右馬允康正の女)。
鹿野藩主亀井政矩は、女婿。
弟に松井次郎兵衛光次がある。光次は3男金七郎が上州大胡藩牧野氏に付属(後に家臣)のため大胡に赴き、当地にて死去。光次の子孫は尾張国清洲藩・名古屋藩、越後長岡藩家臣となった。