松平忠弘
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生誕 | 寛永8年11月8日(1631年12月30日) | |||
死没 | 元禄13年7月2日(1700年8月16日) | |||
別名 | 鶴松丸 | |||
氏族 | 奥平松平氏 | |||
父母 | 父:松平忠明、母:三好氏(側室) | |||
兄弟 | 松平忠弘、松平清道 | |||
妻 | 正室:細川忠利の娘 | |||
子 | 松平清照、娘(四条隆音室)、 娘(松平忠尚室)、娘(大久保忠増室)、 養嗣子:松平忠雅、養子:松平忠尚 |
大和国郡山藩(のち播磨国姫路藩)藩主松平忠明の長男として生まれる。父の死去により12歳で姫路藩18万石の家督を相続し、直後に弟に3万石を分地する。4年後、幼少を理由に山形に転封を命じられ、更に宇都宮を経て白河に入封するが、白河藩時代に、忠弘の後継者をめぐって家臣団を巻き込む騒動が起こり、これが幕府の知るところとなり、一旦領地を召し上げのうえ、父祖の忠勤に免じ特に10万石を安堵され、山形に国替えとなり、同時に隠居した。家督は、忠弘の子清照が病弱だったため、清照の子の忠雅に継いだ。
[編集] 経歴
- 1631年(寛永8年) :生まれる(11月8日)
- 1644年(正保元年):家督相続(5月18日)
- 1648年(慶安元年):出羽山形15万石に国替(6月14日)
- 1668年(寛文8年) :下野宇都宮に国替
- 1681年(天和元年):陸奥白河に国替(7月27日)
- 1692年(元禄5年) :減封のうえ山形10万石に国替(7月21日)、隠居
- 1700年(元禄13年):死去、享年70
[編集] 官位位階
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