松平忠福
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛保2年12月26日(1743年1月21日) | |||
死没 | 寛政11年5月22日(1799年6月25日) | |||
別名 | 幸太郎(幼名) | |||
戒名 | 即是空院繊月幽閉 | |||
官位 | 従五位下、采女正 | |||
藩 | 上野小幡藩 | |||
氏族 | 奥平松平家 | |||
父母 | 父:松平忠恒、母:津軽信興の娘 | |||
妻 | 正室:松平資訓の養女(松平資順の娘) | |||
子 | 松平忠房、高木正剛、松平忠彊、 横瀬貞征、娘(津田信久室)、 娘2人(いずれも典淵景露室) |
松平 忠福(まつだいら ただよし)は、江戸時代の大名。上野小幡藩の第2代藩主。
寛保2年(1742年)12月26日、初代藩主・忠恒の子として生まれる。明和5年(1768年)、父の死去により後を継ぐ。安永3年(1774年)12月に奏者番頭となり、天明5年(1785年)12月24日に西の丸若年寄となる。天明6年(1786年)10月に若年寄となった。
藩政においては、寛政3年(1791年)に藩校・小幡学校を創設する。また、藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、1799年に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果は無かった。寛政11年(1799年)5月22日に死去。享年58。後を忠福の孫にあたる松平忠恵が継いだ。墓所:東京都墨田区向島の弘福寺。
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