松平武聰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 武聰(まつだいら たけあきら、天保13年1月26日(1842年3月7日) - 明治15年(1882年)11月7日)は、石見浜田藩の第4代藩主。美作鶴田藩主。父は水戸藩主・徳川斉昭(武聰は十男)。母は山野辺義貫の娘。正室は堀田正睦の娘。官位は従四位下、右近将監。侍従。名は昭音とも。
徳川慶喜の弟に当たる。幼名は十郎麿。弘化4年(1847年)、先代藩主の松平武成が若死にしたため、その養嗣子として後を継ぐ。藩政においては嘉永6年(1853年)、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や河鰭監物登用による石見半紙、養蚕業などの殖産興業化を推し進めて藩財政を再建した。安政元年(1854年)に叙任している。
幕末期の動乱の中では、斉昭の子で慶喜の弟であることから佐幕派として行動し、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加したが、このときに藩主の武聰は病に臥していたために指揮が執れず、さらに長州藩の大村益次郎率いる精強な軍勢の前に山本半弥率いる浜田軍は壊滅。このため、長州軍が逆に侵攻してくると、武聰は7月18日に浜田城に火を放って杵築に逃亡する。後に松江まで逃れ、慶応3年(1867年)3月には浜田藩の飛び地である鶴田に逃れて鶴田藩主となったのである。このため、浜田は長州藩の占領下に置かれることとなった。
後に鶴田藩は2万8000石、6万1000石と加増されている。明治15年(1882年)11月7日、41歳で死去した。法号:明達日俊高徳院。墓所:東京都荒川区東日暮里の善性寺。
|
|
|
|
|
|
|
|
|