松平直益
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松平 直益(まつだいら なおます)は、江戸時代の大名。越後糸魚川藩の第5代藩主。福井藩越前松平家分家7代。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 寛政元年7月2日(1789年8月22日) | |||
死没 | 天保4年5月29日(1833年7月16日) | |||
改名 | 松平権蔵、直益 | |||
戒名 | 誠徳院 | |||
官位 | 従五位下、兵部少輔、日向守、 左衛門佐 |
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藩 | 越後糸魚川藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:越前松平直紹、母:本多助盈の娘 | |||
妻 | 正室:越前松平直泰の娘 継室:本多正温の娘 |
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子 | 称念寺某(長男)、越前松平直春(次男)、江田某(三男)、 松平益志(六男)、娘(佐藤某室)、 娘(田村某室のち船橋某室)、娘(曽根某室)、 娘(河合方利室) |
[編集] 生涯
寛政元年(1789年)、4代藩主・直紹の長男として生まれる。幼名は権蔵。文化3年(1806年)11月28日、父の隠居により後を継ぐ。文化4年(1807年)には馬場先門番、文化5年(1808年)には日光祭礼奉行、文化10年(1813年)には大坂加番に任じられるなど、要職を歴任した。しかしそのための出費が著しく、さらに文化7年(1810年)1月の江戸屋敷焼失や文化8年(1811年)3月の藩内大火災はそれに拍車をかけ、藩財政の大きく逼迫するに至った。文政9年(1826年)9月14日、次男・直春に家督を譲って隠居した。天保4年(1833年)に死去。享年45。
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