柳生俊章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳生 俊章(やぎゅう としあきら、文化6年(1809年) - 文久2年閏8月17日(1862年10月10日))は、大和国柳生藩の第10代藩主。第9代藩主・柳生俊豊の子。正室は田沼意正の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。
幼名は英次郎。文政3年(1820年)、父の死去により後を継ぐ。日光祭礼奉行、大坂青屋口御加番、半蔵口御門番などを努めた。江戸城普請などでも功を挙げている。嘉永2年(1849年)11月、養嗣子の柳生俊能に家督を譲って隠居し、文久2年(1862年)閏8月17日に54歳で死去した。法号:智峰紹転大機院。墓所:東京都練馬区桜台の広徳寺。
|
|
|