橋瑁
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橋瑁(きょうぼう、150年? - 191年)は、後漢末期の東郡太守。字は元偉。北海郡高密県の人で橋玄の一族で名門あるが、親族としての系統の続柄は明らかではない。または喬瑁と呼ばれる場合もある。
[編集] 略伝
彼は若い時から威厳に満ち、恩情に溢れた人格の持ち主だったため、人望は厚かったと言われている。若い頃の曹操を高く評価していたという。189年、董卓が実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、反董卓の挙兵を呼びかける檄文を作った。反董卓連合が挙兵すると、親交があった陳留郡の人で豫州刺史の孔伷と共に当然その一員として参加している。
その後、劉岱と兵糧の借用問題から対立したために殺害された。
また、『三國志通俗演義』では、檄文を作ったのは橋瑁ではなく曹操ということにされている。