出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘公長(たちばなのきみなが、生没年未詳) は平安時代末期の橘氏の武将。橘広相の次男の橘公材の九代後の子孫。父は橘公光、子に公忠、公業。
元々平知盛の家人であったが、治承四年(1180年)に平家を見限って源氏の麾下に入る。源義経の下で戦い、1185年、壇ノ浦の戦いの後捕らえられた平家の総帥・平宗盛の処刑を担当したが、世の人々は公長がかつて平家の家人であったことを忘れず、その変わり身に多くの批判を浴びせたという。
子孫は肥前国に広がり、公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。