武田元綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武田元綱(たけだもとつな 嘉吉元年(1441年) - 永正2年(1505年))は安芸武田氏当主武田信繁の四男。佐東銀山城主。武田元繁の父。
1467年から始まる応仁の乱では、大内氏との対立関係から東軍の細川方に属し、元網の兄武田信賢は国信・元網を率いて赤松政則らとともに主力として市街戦を展開した。しかし東軍の敗北が続くと、西軍側の毛利氏らの誘いに乗り、元綱は無断で大内方に転じた。それと前後して当主信賢が病死し、その弟である国信が当主となる。
武田元綱が惣領家を裏切り大内方に転じたのは、佐東銀山城に拠り、父信繁から受け継いだ分国守護代から脱却して、惣領家からの独立を画策していたためだと考えられる。その後、元綱は国信と和解し、安芸分国の経営を任されたものの、分国守護職は国信が掌握していた。
1498年の大内義興の安芸国侵攻では息子元繁とともに果敢に戦い、これを撃退して領国の保持に成功する。しかし大内氏の圧迫は元網を終生悩ませ続け、この悩みは安芸武田氏滅亡まで続くこととなる。
1505年に病死し、跡を元繁が継ぐこととなる。
|
|
|