武田国信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武田国信(たけだ くにのぶ)
[編集] 武田国信(室町時代)
武田国信(嘉吉2年(1442年) - 延徳2年6月21日(1490年7月8日))は若狭武田氏の第三代当主。安芸武田氏の武田信繁の三男で、武田信栄や武田信賢の弟。四代当主武田信親・五代当主武田元信の父。
1471年(文明2年)兄の信賢の死去後、武田氏の家督を継ぐ。信賢に嫡子はいたが、幼少であったため、国信が家督を継ぐこととなる。
応仁の乱では兄の信賢同様に細川勝元の東軍に属して、土岐成頼らの西軍と戦うなど奮戦している。しかし弟元網の離反にも遭うなど苦戦も強いられている。
1475年(文明6年)4月、山名政豊と細川政元の和睦の仲介役を務める。しかしこのときの和睦の条件の一つとして、武田氏が応仁の乱の最中に一色氏と戦って奪った丹後の所領を返還せよという条件があった。丹後に在陣中の武田氏被官人はこれに不満で所領返還を拒んだが、和睦に参加した国信は援軍を丹後に送ることができなかった。丹後の武田勢は独力で一色氏と戦わざるを得ず、9月に主将逸見真正は自害、武田軍は敗れて壊滅してしまった。国信はこのとき、落胆して出家し、宗勲と号したという。
その後、足利義尚の六角氏討伐に従って出陣したが。1490年(延徳2年6月21日)、小浜で病死した。嫡子の信親には文明17年(1484年)に先立たれていたので、もう一人の子の元信が跡を継いだ。
国信は文化人として優れており、和歌や連歌の会をたびたび開いたという。
|
|
|
[編集] 武田国信(戦国時代)
武田国信(? - 天文14年(1545年))は、因幡守護山名氏の家臣で安芸守護武田氏傍流の一族。官職は山城守。1545年、山名誠通の家臣である武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。後に息子武田高信は山名氏に対して叛旗を翻して一時因幡国を制圧する事になる(武田氏の頁、因幡武田氏の項を参照)。
- 鳥取市在住の中世史研究家・高橋正弘によると、武田豊前守は鳥取城にあって但馬の山名祐豊に呼応して山名誠通の殺害に一役買ったとされる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』1993年)。
- 1546年10月、伯耆の南条宗勝を助けて橋津川の戦いで尼子氏と戦った因幡山名氏の重臣として武田豊前守常信の名が記録に残るが、武田国信と同一人物だったかは不明。