毛利綱元
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毛利 綱元(もうり つなもと、慶安3年12月23日(1651年2月13日) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、長門長府藩の第3代藩主。父は第2代藩主・毛利光広(綱元は長男)。母は本多忠義の娘・清殊院。正室は池田光政の娘・祥雲院。側室に貞性院。子に吉元、本多忠次、元矩、娘(森長成室→南部信恩室)。官位は従四位下。甲斐守。侍従。
[編集] 生涯
慶安3年(1650年)12月23日、江戸で生まれる。幼名は又四郎。承応2年(1653年)、父の死去により後を継ぐ。このとき、叔父の毛利元知に1万石を分与して、清末藩を立藩する。寛文4年(1664年)、甲斐守に叙任する。天和3年(1683年)、倹約を主とした「天和御法度」を制定する。元禄10年(1697年)には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。
宝永6年(1709年)3月1日、60歳で死去し、後を孫の毛利元朝が継いだ。法号:滝沢院道正瑞霖。
[編集] 赤穂義士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日、赤穂義士47士が吉良上野介を討つと47士のうち岡島八十右衛門・吉田沢右衛門・武林唯七・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・間新六郎・小野寺幸右衛門の10士のお預かりを命じられている。
[編集] 墓所
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